きょうこの頃



2021年4月18日(日)

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太宰治『惜別』について
竹内好『魯迅』
竹田青嗣

坂口安吾『続戦争と一人の女』
石川淳『無尽灯』

サリンジャーと戦争体験 193


アンナ・ハーレント
ユルゲン・ハーバーマス
レッシングの友愛(アミチエ(amiche´)
ルソーの博愛(フラテルニテfraternite´)
『イェルサレムのアイヒマン』
カポーティの『冷血』との類似
どちらも、掲載された雑誌がニューヨーカーでそもそもの企画の段階からニューヨーカー史が関わっていた



 ヴェトナム戦争の傷は、一つにはその戦争が「正義」を標榜したにもかかわらず、「義」のない戦争であったことからきている。日本における先の戦争、第二次世界大戦も、「義」のない戦争、侵略戦争だった。そのため、国と国民のためにと死んだ兵士たちの「死」、  「自由」のため、「アジア解放」のためとそのおり教えられた「義」を信じて戦場に向かった兵士の死ーは、無意味となる。そしてそのことによってわたし達のものとなる「ねじれ」は、いまもわたし達に残るのである。
 日本の戦後という時間が、いまなお持続しているもう一つの理由は、いうまでもなく、日本が他国にたいして行ったさまざまな侵略的行為の責任を、とらず、そのことをめぐり謝罪を行っていないからである。
 電通、博報堂的な感覚からいえば、まだ「戦後」か、ということになるが、呼称をいくら目新しいものに変えても、この異質な時間が半世紀をへてなお、わたし達を包んでいることの責任の一半は、わたし達にある。
 わたしはここでは、このうち、戦後という時間をいまなお生きながらえさせている前者、「ねじれ」の側面について考える。戦後とは何か。それはすべてのものがあべこべになった、「さかさまの世界」である。そして、それが誰の眼にも「さかさま」には見えなくなった頃から、わたし達はそれを、「戦後」と呼びはじめている。
「戦後」が、人が頭を下にして歩き、水が下から上にむかって流れ、覆水が盆に返るさかさまの時代であるとは、どういうことか。
 一九八四年六月六日、フランスのノルマンディー海岸で旧連合軍のノルマンディー上陸四十周年を記念する式典が開かれ、それには当時の連合国の首脳と退役軍人が多数参加したが、NATOの一員である当時の西ドイツ首相ヘルムート・コールには、彼から参加の希望が伝えられていたにもかかわらず、招待状が届かなかった。
 コールは、ノルマンディi海岸に立つことができなかったが、この時、西ドイツの主要紙「ディ・ツァイト」編集長のテオ・ゾマーは、こう書いている。
 来週、勝利者達は記念式典のためにノルマンディーの戦場跡に集う。我国ではコール首相の式典不参加をめぐって当惑した議論が行われた。(中略)
 我々ドイツ人にとって、Dデー(ノルマンディー上陸作戦決行日  引用者)は、いずれにせよ、いくつかの痛みにみちた見解に決着を与えるためのきっかけである。
 第一の見解は、なかでももっとも辛いものだ。我々が今日、享受している自由や民主主義や繁栄は、四〇年前に連合軍がアドルフ・ヒトラーの第三帝国への突撃を試みていなかったら、ありえなかった。つまりそれは、我々に対しては、まず外からトータルな崩壊が押しつけられなければならなかった、という見解である。(「Dデー  賽が投げられた日」『ディ・ツァイト』一九八四年六月一日号)
(10-11p.)

2 湾岸戦争関連文献

 その証左となる事例には事欠かない。
 三年前(一九九一年)、湾岸戦争が起こった時、この国にはさまざまな「反戦」の声があがったが、わたしが最も強く違和感をもったのは、その言説が、いずれの場合にも、多かれ少なかれ、「反戦」の理由を平和憲法の存在に求める形になっていたことだった。
 わたしは、こう思ったものである。
 そうかそうか。では平和憲法がなかったら反対しないわけか。
 わたしは、こういう時、一抹の含羞(?)なしに「平和憲法」を掲げる論者たちの感覚に、事態の深刻さを知らされる思いがした。また、わたし達に法の感覚がないことを、強く感じた。わたし達に戦争に反対する理由があり、それが、わたし達に戦争を反対させ、また、平和憲法をも保持させる、順序はそうであるはずのところ、それが、そうではなかったからである。
 たとえば、この時に若い文学者を中心に出された「文学者」の反戦署名声明なるものには、こう記されていた。
声明1
私は、日本国家が戦争に加担することに反対します。
 声明2
 戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を「最終戦争」
として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。
 われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき】切の戦争に加担することに反対する。
 引用の正確を期せば、この二つの声明のうち、前者には署名者四十二名の名前が、後者には、「文学者の討論集会 事務局しと声明者十六名の名前が、声明の日付とともに記されている(ネ )。
 このうち、ここでは主に後者に触れるが、ことによれば外国向けの修辞として作文されたこ
(14-15p.)

 ではない、後にくる、しかし間違いのない思想と同時期の、しかし誤りうる思想という二つの思想の対照なのである。
 では、思想が「圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える」のでは、なぜ、遅いのだろうか。
 なぜそれは、「いま」でなければならないのか。
 最近出たある本のあとがきに、この問いにふれると思われる意味深い文章がある。ただし、これを書いているのは、ここで太宰治の対立者に擬されようとしている、吉本隆明である。
 彼は、書いている。
 わたしには遠い第二次大戦(太平洋戦争)の敗戦期にじぶんとひそかにかわした約束のようなものがある。青年期に敗戦の混迷で、どう生きていいかわからなかったとき、わたしが好きで追っかけをやってきた文学者たちが、いま何か物を云ってくれたら、どれほどこのどん底の混迷を脱出する支えになるかわからないとおもい、彼らの発言を切望した。だがそのとき彼らは沈黙にしずんで、見解をきくことができなかった。(略)その追っかけはそのときじぶんのこころにひそかに約束した。じぶんがそんな場所に立つことがあったら、激動のときにじぶんはこうかんがえているとできるかぎり率直に公開しよう。それはじぶんの身ひとつで、吹きっさらしのなかに立つような孤独な感じだが、誤謬も何もおそれずに公言しよう。それがじぶんとかわした約束だった。(『大情況論』あとがき、弓立社、一九九二年)
 ところで、わたし達はよく考えなければならないが、ここにあるのは、どのような問題だろう。ここに顔を出しているのは、どのような意力というべきなのだろうか。
「巨きすぎてつかまえどころのない、そしてとうてい正確につかまえられそうにもない動静」
を前にして、ひとは一つの盲目状態におかれる。そこで語られることには何の確証もない。それは誤っているかも知れない。しかし、たとえそうだとしても、その誤っているかもわからない考えを、必ず、後でではなく、その場で、公言する。ここには、そういうことがいわれている。
 それは、すべてが終わった後、誤らない考えを明らかにすることと、一つの対照をなし、そのことを否定するものとして、ここに語られている。ところで、この吉本の言葉の核心はどこにあるだろう。吉本はこれを思想の発信者(書き手)の受信者(読み手)に対する態度の問題として語るが、ここにあるのは、それ以上のこと、たぶん思想の本質に関わる問題である。
 その場合、この吉本の言葉は、こういっている。
 その場で考えられ、語られ、受けとめられる思想は、誤りうる。もし、思想の意味と価値が誤らないこと、つねに正しいことにおかれるとしたら、どう考えてもこの同時期の思想よりは、後で語られるほかないにしても誤らない事後の思想のほうが、よいことになる。しかし、こう考える時、わたし達の中に、一抹の失望が生まれるのはなぜだろう。わたし達の中に、たとえ誤りうるとしても、同時期に発生する思想のなかに、何か大切なものがあるという感じが
(158-159p.)

 2 太宰 VS J・D・サリンジヤー

 太宰の「トカトントン」はわたしにJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を思いださせる。一見したところ関わりをもちそうにない二作だが、全く無縁だというのでもない。簡単にいえば『ライ麦畑でつかまえて』は、あの『お伽草紙』がそうであるような戦争小説である。そこに描かれていることの一つは、「トカトントン」が描くのと違わない、戦争からの生還者の苦しみなのである。
 この小説を戦争小説といえば、多くの人が語るだろうが、この小説は、一九四〇年前後から準備され、断続的に書きつがれ、一九五〇年に完成をみている。この小説が書かれた時期の前半、作者の職業は兵士だった。サリンジャーは太宰より九歳年下の一九一九年生まれで、一九四五年を二十六歳で通過している。少年時代から文学好きで、学校を退学し、その後陸軍幼年学校を卒業、一九四二年に志願入隊、一九四四年にはノルマンディー上陸作戦にも参加している。
 その戦争体験がある意味で『裸者と死者』のノーマン・メイラー以上に過酷なものだったらしいことは、その後、ドイツ降伏までに彼の経験した五度の戦闘のうち、アメリカ軍がヨーロッパ戦線で経験した最悪の戦闘といわれる激戦が、ヒュルトゲン、バルジと、二つまでそこに含まれていることからわかる。このうち、たとえば仏独国境に近いヒュルトゲンの森の攻防戦は、厳寒のもと、ここを死守しようとする四倍の数のドイツ兵とアメリカ兵のあいだで地雷の敷設された泥津地帯を戦場に一ヵ月にわたって繰り広げられた激戦で、この戦いによる死傷者の数は「Dデーに参加した兵士たちでさえ仰天する」ほどの規模に達し、森は「最後の死体が取り除かれた後も」死臭を放ち続けるだろう、といわれたという。サリンジャーはそこで何度か死線をくぐったようである。というのは彼が、戦争のことをほとんど語らないためだが、一九八九年に出たサリンジャーの特異な評伝イアン・ハミルトン著『サリンジャーをつかまえて』は、戦友の証言や残された手紙から、彼がドイツ降伏後、一時神経をやられ、入院していたと推定している。
 このハミルトンの本は一九四四年三月に、兵士サリンジャーが当時の文学上の師にあてた『ライ麦畑でつかまえて』に触れた手紙をも発掘している。それによればこの時彼は、この小説草稿の執筆が第六章まで進んだことを告げている。先の「敗戦後論」をわたしは、日米の戦争小説を大岡昇平『俘虜記』、『野火』とノーマン・メイラー『裸者と死者』に代表させる枠組みに立って考えた。そこでの戦争小説とは戦争を主題にとった作品ということである。しかし、もし戦争小説を戦争にコミットして書かれた小説と考えれば、太宰の事例はたぶん別のもう一つの戦争小説の概念を要請している。というのも、そのコミットは、戦争が終わった後は戦争について書かないという不思議な形をとったからである。もし、戦争を書いた小説だけでなく、太宰の『お伽草紙』のように戦争の中で書かれた小説までを戦争小説と呼ぶなら、『ライ麦畑でつかまえて』はこの条件をみたす。このクリスマス前夜、十六歳の少年がニューヨークをさまよう都市小説は、太宰の『お伽草紙』と同じく、戦争の中で書かれ、しかも戦争についてふれない戦争小説なのである。
 よく知られているが、この小説はおおよそこのようなすじがきをもつ。主人公のホールデン・コールフィールドは世の中や学校のインチキ(^い℃げO昌団噸鴇)が我慢できず、これまで何度か放校になっている十六歳の少年だが、クリスマス休暇に先立つある日、またその学校からも放校されることとなり、一人寄宿舎を出て、自宅のあるニューヨークに向かう。彼はクリスマス休暇直前の数日をニューヨークでホテルをとり、家に忍び込み、幼い妹フィービーと会ったり、女友達と会おうとしたり、公園の家鴨の池を見たりして過ごすが、その遍歴の最後、彼が訪れるのは、彼が大人としてほとんど唯一心を許す、以前いた学校の教師、アントリー二先生のもとである。
以前在籍した学校にジェームス・キャスルという名の生徒がいた。やせっぽちで、小さくて、弱々しげな少年だったが、ガキ大将でうぬぼれの強い生徒のことをうぬぼれが強い、といい、このことを取り消すよう、何人かがかりで強要され、「自分が言ったことを取り消すかわ
(191-193p.)

をつぐ。「よし、わかった。……ちょっと聞いてくれ。……君の記憶に残るような言い方をしたいんだが……L。
 君がいまむかっている堕落は、「特殊な堕落、恐ろしい堕落だと思うんだ」、それは「底というものがない」、「どこまでも墜ちて行くだけ」の堕落だ。世の中には人生のある時期にとうてい環境が与えることのできないものを探し求めようとする人がいる。そのあげくに探しているものはとうてい手に入らないと早々に決めてしまう人、といった方がいい、そういう人がいるのだが、僕は、ちょうどいまの君が、そうだと思うんだ。「わかるかい、僕の言うこと?」「僕には、君が、きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で、高貴な死に方をしようとしていることが、はっきりと見えるんだよ」。そういって、先生は、「へんな顔をして」ホールデンを見る。そして、訊く。もし自分が何かを書いてそれを君にやったら、それを丁寧に読んでくれるか、そしてそれをしまっておいてくれるか? と。そして先生は、精神分析学者ウィルヘルム・シュテーケルのものだという、こんな言葉を、紙に書き、渡すのである。
 未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。
 ところで、この言葉は、この小説をもう一つの「トカトントン」として読めば、太宰がどうすれば「この音からのがれる」か、教えてほしいという若者に答えて与える言葉、マタイ伝、十章、二八の、
 身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを催るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。
 に、ちょうど重なる。それは、この小説における「真の叡知の言葉」として、あの「トカトントン」の返事のように、アントリー二先生に書かれ、ホールデンに渡されるのである。
 すると、どうなるのか。
「トカトントン」では、あの若者のSOSに対し、太宰が自分の分身に「真の思想」で答えさせる。ちょうどそのように、ここでサリンジャーはアントリー二先生に「真の叡知の言葉」で答えさせているが、「トカトントン」がその太宰の答えで終わるのに対し、『ライ麦畑でつかまえて』はこのアントリー二先生の答えを契機に、以後、その先、あの「誤りうること」のほうへと、その世界をひろげていくのである。
 ホールデンはこの紙を受けとる。しかし、彼は、すぐに熱心にこの紙を読むというのではない。では、どうするのか。彼は急に疲れをおぼえる。彼は、ふいの「眠気」に誘われる。
 小説はこんなふうに続く。
先生は身を乗り出して、その紙を僕に手渡したんだ。僕は渡された紙にすぐに目を通したね。それからお礼やなんかを言って、ポケットにおさめたよ。ここまでしてくれるなんて、親切な人でなければできないことさ。実際そうに違いないよ。ただ、困ったことに僕は、そのとき、あんまり注意を集中したりしたくなかったんだ。急に、すごく疲れがでちまったんだな。(『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳)
 太宰のゲヘナの言葉、アントリー二先生の高貴な死と卑小な生の言葉、これは語られている内容こそ反対だが、「真の言葉」として掴まれている点、一致している。太宰がもし、このゲヘナの言葉の前で、激しく蹟き、この身も魂も滅ぼす真の投企を断念したとしよう。その場合、これに代わって以後、彼にやってきうるもう一つの「真」が、アントリー二先生の言葉なのである。「真の思想は叡智より勇気を必要とする」。その勇気の言葉がゲヘナであり、叡智の言葉がシュテーケルの言葉である。内容こそ違え、これらは、答えとして人を導く、「真の言葉」なのだ。
 サリンジャーが、このシュテーケルの言葉を、心から、これ以上ない、どうしてもこれを否定できない「真」の叡智の言葉として見出していることは、疑いない。ただ、この真の言葉に関し、太宰がそれを自分の根拠として示すのにたいし、サリンジャーはこの同じものを、真理ではあるがどうしてもこれに負けたくないものとして、読者の前に示す。彼は、この「真の言葉」の前に、いわばこのホールデンのちゃらんぽらんな受け答えともいうべきものを対峙させるのである。太宰では、あのブレーカーが下りやすくなった身体の悩みに、強い倫理の答えが
向かい合っていた。しかし後に見るように、ここに顔を見せているホールデンの苦しみも、それとそんなに違ったものではない。しかしサリンジャーは、この「真」に抗う。彼は、この「真」へのふしぎな抗いを描こうと、ここに、あのゲヘナの言葉にも似た、倫理の言葉、「真の叡智の言葉」をおくのである。
3 意識と、身体的なもの
 ここに顔をだしているのは、どういう問題だろうか。
「トカトントン」で若者の苦しみを特徴づけているのは、それがそれまでの「虚無をさえ打ちこわす」、これまでにない、未知の虚無として語られていることだった。この若者は、トカトントンが聞こえるようになり、自分は「いまわしい癩痛持ちみたいな男になった」と感じるが、ここにあるのは、意識の虚無と、これに対する身体の違和ともいうべき、身体という次元の異なるものの登場によって特徴づけられる、一つの対照だったといっておくことができる。
 社会に復帰できない元兵士の違和が、身体的違和として現れる例として、わたし達はあの大岡昇平の復員者の小説『武蔵野夫人』における、自分がこの社会ではもう「人混りの出来ない体」になったという主人公勉の感慨を思いだすことができる。同じ言葉が、大岡のもう一つの小説『野火』の主人公の感慨としても、「人交りの出来ない体」という言葉で現れている。しかしそれに似た感慨は、サリンジャーの中にもある。彼は、「ストレンジャー」という短編に 
(196-199p.)

  イアン・ブルマの『戦争の記憶ー日本人とドイツ人』(TBSブリタニカ、一九九四年)は、日本の戦後の問題をドイツとの比較を通じ、この世界性の光の中で考えようとした最初の本の一つだろうが、とりわけ日本が戦後おかれることになった道義的な泥沼的状態をさして、日本人にとっての"受難"と位置づける見方で、わたしに独特の印象を残す。彼の語っている話でわたしの心に残るのは、たとえば特攻隊で死んだ若者の自己犠牲がセンチメンタルに美化される一方、「若者らしい理想主義が逆手にとられ、無駄な企てに動員された」ことへの視点が完全に抜け落ちている、という指摘、日本とドイツでは平和主義が戦争の罪悪感を和らげる「高潔かつ好都合な方法」として機能している、という指摘、また、とりわけ、アメリカの占領政策の余波を受け、天皇が免責されることにより、日本がそこで誰もが道義を問われにくい、特異な国になったことを、これは日本人にとっての"受難"ではないか、と位置づけている個所などである。いまわたしは日本の外にいるため、こういうことをいいやすい。その言葉の軽さを自覚していうが、わたし達は、たしかに戦後、道義的にはこれ以上ない泥沼に落ちたのではないだろうか。わたしのここ数年の関心はそこに向いていたが、その理由をわたし自身がよく知っていたとはいえない。しかし、そう考えることがわたし達の思想にとっての踏み切り板であり、もう少しいえば、そう考えるところからしか、わたし達がその苦境を抜け出る方途は出てこないというのは、この文章をわたしに書かせる確信の一つである。
 アーレントがしばしば自分を含むユダヤ人の経験の意味をさしていう言葉にパリア(賎民)としてのユダヤ人、という表現がある。簡単にいえば最低存在としてのユダヤ人、というほどの意味だが、そのパリアには独特の響きがある。彼女はたとえば、レッシングの友愛(アミチエ)とルソーの博愛(=兄弟愛、フラテルニテ)を比較した上、この博愛から作られるルソーいうところの人間性は、「侮辱され、自尊心を傷つけられた側に属さず、同情心によってしかそこにつながれない人々」には適合しにくい、と述べている。ここにいう「侮辱され、自尊心を傷つけられた側」をさして、彼女はパリアというのだが、しかし、そういうことでパリアをではなく、ルソーの博愛のほうを否定するのである。博愛は快楽と苦痛という本能に属し、それは音声(son)を生むが、友愛は歓び(joie)に属し、それは語り口(ton)を生む。パリアとしての経験は何の光明もない場所で人の生にふれる、しかしそこに政治的な意味はない、だからこそパリアは友愛を必要とする、というように弧を描いて進むのがアーレントの考えにほかならない。これは現実に日本人が戦後おかれた場所とは逆の境遇をさしているが、しかし、その逆さ加減がいわばその対極性において際だっていることを通じ、この表現は、わたしに強く働きかける。日本人は戦後、ここにいわれる対極の意味で、つまり、道義的に、パリアになったというべきではないだろうか。その自覚の徹底があってはじめて、わたし達はこの不思議な苦境ーそうと感じられない苦境ーから回復できるが、その起点の問題が、わたし達をつつむ、この戦後のある共同性の解体だろうと、わたしは考えるのである。
 ここで取りあげるのは、アーレントが一九六〇年代の前半に書いた『イェルサレムのアイヒマン』である。この著作が発表後各方面に引き起こした強度の反発を手がかりに、主にこのナチス戦犯の裁判のルポルタージュで彼女が採用している「語り口(tone)」の問題について、
(228-229p.)

  わたしは一切この種の愛には動かされません。そしてそれには二つの理由があります。わたしはこれまでわたしの人生で一度もどんな民族なるものもどんな共同体も、「愛し」たことがありません。ドイツ人というもの、フランス人というもの、アメリカ人というもの、労働者階級というもの、この種のものすべてそうです。わたしはわたしの友人「しか」愛しません。わたしが身をもって知っている愛もわたしが信をおく愛も、人たちへの愛です。第二に、「ユダヤ人たちへの愛(love of the Jews)」というのも、わたし自身がユダヤ人である以上、怪しげに思えます。わたしはわたし自身を愛することはできません。わたし自身の人格の一部、一断片をなすとわかっているものも、同断です。
 だから、そこにいなかったから「わたしは判断できない(裁けない)」という含意をもつ先の後段のショーレムの言い方に対し、この往復書簡で、アーレントが、後によく知られ、引用されることになる論理的な答えのほうではない、次のような言い方をしていることの意味は、十分に正確に理解されなければならない。
 それへの永遠の反対勢力と批判なしには、どんな愛国心も存在できないという点については、われわれの考えは一致しています。しかしわたしはあなたにさらにその先にあることについていいたい。それは、当然ながら、わたしの民族によって犯された悪は、他の民族によって犯された悪以上に、深くわたしを悲しませる、ということです。しかし、この悲しみ(grief)は、わたしの考えでは、たとえある種の行動か態度かの、もっとも深く秘められた動機になりこそすれ、けっして口に出して語られるものではありません。一般的にいって政治における「心」の役割を、わたしは全面的に疑わしいと思っています。
つまり先のショーレムの問いについて、アーレントは、後に『イェルサレムのアイヒマン』
の第二版に書き加えられた「あとがき」で、より論理的に、
 われわれ自身がそこにおらず、それに関係していない以上、判断できない(裁けない)、という議論は一見誰をも説得するように見える。しかしながら、もしそれが本当なら、誰も裁判官や歴史家になれないことになる。
 と答えている。そのため、このアーレントの判断11裁きをめぐる答えは、しばしばたとえ同胞に対してであっても普遍的で公正で第三者的な判断11裁きを行うことが可能であり、またそうすべきだ、というように、平坦に解されやすいのだが、しかし、アーレントの中ではいわばこの二つの答えが、共同性の位相と公共性の位相というように重層的な構造をなし、表と裏になって、一つのコインを構成している。この論理的な答えは鏡のように明晰だが、しかしそれを鏡にしているのは裏面の闇なのである。
 アーレントはなぜ公共性を必要としているのだろうか。ショーレムに見られるような共同性
(246-247p.)

 な語り口に接すると、そこに「鳥肌が立つ」ような違和感を生じるのか。
 こうした語り口の特徴は、それが公共性に達しておらず、共同的だということである。
 なぜ死者との関係を公共化しなくてはならないか、といえば、それが共同性としてある限り、わたし達は分裂した主体としてしか他者の前に現れえず、歴史形成の主体を構成しえず、わたし達の社会で、隣人たちとの間に、公共的な空間をもてないからだった。旧護憲派は二千万の他国の死者の前で「無限に恥じ入り、責任を忘れない」といい、旧改憲派は、三百万の自国の死者を哀悼するため、侵略戦争をそうではない義のある戦争だといいつのり、「国家国民は汚辱を捨て栄光を求めて進む」といった。しかし、この語り口が相似的なのは、共同的だからであり、それが共同的なのは、その死者との関係がともに共同的だからである。両者が共同的であることが、彼らを一国内で分裂させている。しかし、かつては死者に対し共同的であること、そのことが国民国家に基礎を提供し、彼らを一つ紐帯につないだのではなかっただろうか。だから死者の共有の経験にほかならない敗戦が、フィヒテのそれ、ルナンのそれといったネイション論の契機になったのではなかっただろうか。何が変わったのか、といえば、第二次世界大戦、世界戦争は、この共同性の器を壊したのである。以後、悲しみはわたし達を一つにしない。悲しむと、それはわたし達を分裂者にするのである。
 共同性に立つ限り、そこではわたし達は分裂せずにはいない。わたし達は別の答えを見つけださない限り先に進めない苦境を、この敗戦によって与えられている。しかし第二次世界大戦の敗戦国民としてのわたし達の経験は、この共同性をめぐる背理のうちに、世界性をもっているのである。
 共同性と公共性との対立とは、これをユダヤ人の思想経験の中でいえば、シオニストと同化ユダヤ人の対立である。かつてシオニズムの周囲で活動に従事していた頃、アーレントは、ユダヤ人はもう選民意識を捨てて、ふつうの民族のようにならなければならない、という主張に与している。そのような選民意識、メシア待望がある限り、そこが逃げ場となって、ユダヤ人が歴史に投げ出されることはないから、というのがその理由である。彼女が後に彼女を拒否するユダヤ人雑誌『アウフバウ』に一九四一年、寄稿した最初の論文は「ユダヤ軍ーユダヤ人の政治のはじまり」と題されている。そこで彼女は、ユダヤ人が他の民族と同様、軍隊をもつことがユダヤ人に政治経験を強いることに積極的意味を見る、彼女らしいユダヤ軍創出論を展開している。ところでこの考えは、ショーレムに代表されるシオニズムの主張とは真っ向から対立する。前出のクルチーヌーードゥナミは、この対立を、アーレントは「ユダヤ民族の正常化」に与し、それだけが彼らを歴史に直面させると考えたが、一方ショーレムは逆に、そのような正常化はユダヤ民族の終わりを意味すると考えた、と表現している。あの『イェルサレムのアイヒマン』をめぐる語り口の論争は、この共同性と公共性の対立なのである。
 さて、なぜ、たとえば、先に引いた高橋哲哉の、
「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が『侵略戦争』だったという判断から帰結するすべての責任を忘却しないということを、つねに今の課題として意識し続けるということである」
(270-271p.)


敗戦後論

2 この文章の発表後に現れた川村湊「湾岸戦後の批評空間」(『群像』一九九六年六月号)によると、この「声明」は、当初、中上健次、島田雅彦、川村湊の発意で討論集会が計画され、その延長で、曲折をへた後、この集会後の声明として、柄谷行人、田中康夫、高橋源一郎らの「起草委員」
の手で草案が準備され、署名者全員のチェックの後、作成されている。
3 この時のホイットニーの「原子力的な日光浴」発言について当時憲法作成の責任者であり、直接第九条の起草にあたった総司令部民政局次長チャールズ・ケーディスは、これがホイットニーの「真面目な発言」ではなく「冗談」にすぎなかったと述べている。彼によれば、この日、ホイットニーは高熱を発していて体調が悪かった。しかし、日本側に仮病を使ったと思われるのを嫌って無理を押して草案手交の場に赴いた。で、この時、「ホイットニー将軍はふだんの冷静さをいささか欠いていた」。その証拠に、手交の会議の席上、「あなた方はこのGHQ草案を受諾するもしないも自由です。もし受諾しなければ、次の総選挙の機会に明治憲法の日本政府案を選ぶか、それともGHQ改正案を選ぶかの国民投票を行いますLと発言している。これはマッカーサーの承認を得ていない不用意な発言である、云々。しかし、ケーディスのこの言にもかかわらず、この発言をまさしく「冗談」であればこそ、ラミスのいう「奥深い感情」の発露になっている、と考えることもできる。また、ホイットニーに珍しいというこの冷静を欠いた後の発言の理由を、この時彼が、自分の主義信条に反したことをしようとしていたからだと考えてみることも同じく可能である。(この発言の出てくるケーディスへのインタビューは一九八四年八月に竹前栄治によってケーディスの自宅で行われた。竹前『日本占領 GHQ高官の証言』)
 さらに付言すれば、彼らはこの時自分たちの行おうとしていることが、自分たちの信条に照らして危険なことであることを十分熟知していた。少なくとも、ケーディスの場合はそうである。その証拠に、ケーディスは、この草案作成においてできるだけ、被占領国日本の自主性をそこなわないよう、配慮を示している。また占領国の人間として謙虚であろうという姿勢をとっている。彼が、作業の基本を定めたマッカーサー・ノートに明記された戦争放棄条項から一度困独断で交戦権の放棄の明示個所を削ろうとしているのもそういう意思の現れた例であり(彼はその理由を聞かれ、「どんな国でも、自分を守る権利があるからです」と答えている)、また、この憲法に、勝手に改正できにくいよう、制限をつけ加えようとした他のメンバーに強く反対し、激論の末、これを撤回させているのも、その一例である(ともに鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』)。彼はこの憲法が後に日本国民によって「選び直され」ることを、まったくこの時代にあって例外的に、希望していたふしすらある。
 なお、前掲の鈴木の著書は、これまで流布されてきたリベラル・ラディカルな像とは違う「ねじれ」たケーディス像を取りだしている点で注目に値するが、これによれば、ケーディスは憲法草案作成グループの責任者として、中で最も保守的な立場を自分にとらせ、しかも、対外的には最もリベラル・ラディカルに見られることを選ぶという特異な姿勢を示している。戦後初期の日本にあって日本国憲法は、この後述べる美濃部達吉と、このチャールズ・ケーディスと、二人の「ねじれ」
の自覚に立つ人物によって、挟撃されている。最も憲法を真剣に考えた二人が、ともにこの憲法には「ねじれ」た姿勢を取ったということは、やはり記憶にとどめるに値することだろう。ケーディスはこの論の初出の後、一九九六年に死去しているが、日本で考えられてきたイメージからほど遠い、骨太な、並々ならぬ精神の持ち主だった。この原稿の初出形をわたしはそのことを知らずに書いた。ケーディス評価がその後、鈴木の著書に触れたことで、大きく変わったことを付記しておく(このケーディスの「ねじれ」た日本国憲法観については別稿、加藤「チャールズ・ケーディスの思想」『思想の科学』一九九六年四月号に詳述している)。
4 毎日新聞社が一九四六年五月二十七日、政府提出の新憲法草案を前に行った世論調査では、「戦争放棄条項」は「必要七〇%、不要二八%」である。しかし、敗戦後わずか九ヵ月でのこの結果には、わたし達をかえって心許ない気持ちに誘うものがある。これが一年前だったら、自由なアンケートだとしてもこれを必要と考える国民が二桁になること自体、なかったろう。この新たな世論がむしろ戦争放棄条項の「作品」であるようにも見えるのである。
 なお、ここにいう憲法実質かちとり説は、左翼陣営から示され、憲法形見説は、主に戦中派の論者によって示された。押しつけ消化説は、ほぼ戦後が時をへた一九七〇年以降になって現れてくる。
5 林達夫は「新しき幕開き」(一九五〇年)にこう書いている。「その(敗戦後のー引用者)五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題がO。2且巴智忘昌問題という一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言動が圧倒的に風靡していたことである。このOccupied Japan抜きのJapan論議ほど、間の抜けた、ふざけたものはない」。たぶん戦後の知識人を、この「ねじれ」に敏感だった部分と、その感覚を欠落させた部分に分けることができる。この場合、後者は、戦前への復帰を主張する部分と戦後の価値だけでいけると考える部分とからなるが、戦後の保守主義者、戦後民主主義者の大半がここに分類される。この分類から外れる前者、「ねじれ」に敏感だった知識人には、前記、美濃部、津田、太宰、中野の他、この林、さらに中村光夫、川端康成、梅崎春生、竹内好、武田泰淳、大西巨人、吉田満などをあげることができる。このことの意味を明らかにするのが、吉本隆明、三島由紀夫の戦中派世代だが、この論では、それを最も深く生きた文学者として、大岡昇平に光を当てている。
6 吉本隆明の「現代学生論  精神の闇屋の特権を」(一九六}年)参照。そこに、学生の吉本がこの「春の枯葉」の上演許可を求めて太宰を訪れる場面が出てくる。
(276-279p.)

 8 「戦後文学」の対項としてのカテゴリーとしてはもちろん「戦前派」ともいうべき集団がいる。
そこでの中核的存在である小林秀雄周辺の文学者では、小林自身が『近代文学』第二号(一九四六年二月)の小林を囲む座談会で、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。,黙って処した。それについていまは何の後悔もしていない」、「この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ」、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいゝじゃないか」と述べ、河上徹太郎が、一九四五年十月に「配給された『自由』」を書いて袋叩きにあう。但しこの両者には、自己の信条への確信があり、敗戦の未知の局面への感受性は乏しい。ここに述べるのとは別の意味で、彼らには「ねじれ」の感覚の希薄さ、屈折の度合いの弱さが共通している。しかし、その後書かれる中村光夫の「独白の壁  椎名麟三氏について」(一九四八年十一月)、「占領下の文学」(一九五二年六月)には、独自の「ねじれ」の感覚が認められる。中村は戦後文学の担い手を「みなそれぞれに戦争の犠牲者めいたポーズをつくり、戦前の文学など俺には何の縁もないといった顔をしたこれらの『新しい』文学者の集団」と呼んでいる(「独白の壁」)。また、戦後文学発生の条件の一つに、「占領下に与えられた『自由』が、多くの作家にとって、実際その創作の上でのすべての束縛の解除と映ったこと」をあげている(「占領下の文学」)。
9 中でこの後、最もこの「ねじれ」に正面からぶつかることになるこの時期の戦後文学者は、三島由紀夫である。彼は、天皇をめぐるねじれ、戦争の死者への態度をめぐるねじれにぶつかり、最後、昭和天皇を否定する天皇制擁護論にたどり着くが、これは、わたしがこの論で展開している現憲法を否定する憲法擁護論(平和憲法選び直し論)に、奇しくもその「ねじれ」の形で、正確に対応している。わたしからすれば、このことは、三島が、戦後日本の問題の核心を生きたことの一証明である。
10 一九九三年八月の細川内閣発足後、十二月に中西啓介防衛庁長官が憲法見直し発言で辞任、その後、一九九四年五月に、発足したばかりの羽田内閣の永野茂門法相が南京大虐殺はでっちあげだという発言を行って非難され、前言を撤回して、辞任、続く一九九四年八月にはやはり発足まもない村山内閣の桜井新環境庁長官が大東亜戦争に侵略の意図はなかった、と発言して、同じく東アジアの諸国に非難され、前言を撤回し、辞任している。
12 第二次世界大戦によるアジア諸国の死者の概数は、文献によって異なる。実教出版の『高校日本史三訂版』(一九九〇年刊)では以下の通りである。中国約一〇〇〇万人、朝鮮約二〇万人、ベトナム約二〇〇万人(大部分は餓死といわれる)、インドネシア約二〇〇万人、フィリピン約一〇〇万人、インド約三五〇万人(大部分はベンガルの餓死者)、シンガポール約八万人、ビルマ約五万人、計約一八八三万人、他に日本約三一〇万人。なお、この他に、『写真記録集  米国版 対日終戦史録』(編纂:日米国国防総省、官公庁資料編纂会発行)によれば、米国陸軍の対日戦争の死者は約一七万五〇〇〇人、うち戦死者約五万二〇〇〇人とされている。
13 広島の原爆による朝鮮・韓国人の死者の存在はわたし達に深い意味をもっている。それは、原爆の死者の無垢性というものにわたし達の疑いを向けさせるたぶんはじめての契機となった。この敗戦の死者の問題の「ねじれ」が浮上するのに、この無垢な死者の碑石が取り除かれることはわたし達に不可欠の条件だったはずである。この文章の初出とほぼ同時期に訳書が刊行されたイアン・ブルマ『戦争の記憶  日本人とドイツ人』によれば、広島の記念公園には本国から強制連行され、広島で働かされている時に原爆にあった朝鮮人犠牲者の碑は、おかれていない。一九七〇年に大韓民国居留民団によって建てられた碑が「平和記念公園の外、片隅に隠れるように」立っている。「のちに地元の朝鮮人がこの慰霊碑を公園内に移転させようとしたが、失敗に終わった。広島市当局は、平和公園には慰霊碑は一つでよいといった。そしてその慰霊碑には朝鮮人の過去帳は納めてもらえなかった」。日本人以外には入れない。しかし、日本人でさえあれば、ほぼ個人の特定なしに入ってしまう、というあり方が、やはりこの平和記念公園と靖国神社の共通性格として浮かび上がる。なお、後者に関連し、死者の遺族の意思を無視しての護国神社への合祀をめぐり、山口県の殉職自衛官未亡人中谷康子が訴訟を起こしたことは記憶に新しい。
14 三島由紀夫の『英霊の声』(一九六六年)は、反逆罪で処刑された二・二六事件の青年将校、特攻隊の死んだ兵士が、自分たちを裏切った天皇を糾弾し、呪謁する小説である。これが昭和天皇への苛烈な批判の書であることについては、別稿、加藤「一九五九年の結婚」を参照のこと(『日本風景論』一九九〇年、所収)。そこでわたしは、この小説の最後に死に顔として現れる「あいまい」きわまりない顔が昭和天皇のそれではないか、と述べたが、それは、一九九四年刊の堂本正樹『劇人三島由紀夫』が記録している三島自身の発言から、そうであったと確認される。三島は、その後、ふがいない天皇に別種の天皇を代置する『文化防衛論』の立場から、自衛隊決起を促す行動に出て自決するが、この三島の戦後への異議申し立ての根拠は、自国の兵士に対する天皇の責任逃避と、兵士の側からの糾弾の(遺族の名による)抑圧がある限り、現存している。この遺族の名に
(280-283p.)




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