8 「戦後文学」の対項としてのカテゴリーとしてはもちろん「戦前派」ともいうべき集団がいる。
そこでの中核的存在である小林秀雄周辺の文学者では、小林自身が『近代文学』第二号(一九四六年二月)の小林を囲む座談会で、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。,黙って処した。それについていまは何の後悔もしていない」、「この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ」、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいゝじゃないか」と述べ、河上徹太郎が、一九四五年十月に「配給された『自由』」を書いて袋叩きにあう。但しこの両者には、自己の信条への確信があり、敗戦の未知の局面への感受性は乏しい。ここに述べるのとは別の意味で、彼らには「ねじれ」の感覚の希薄さ、屈折の度合いの弱さが共通している。しかし、その後書かれる中村光夫の「独白の壁 椎名麟三氏について」(一九四八年十一月)、「占領下の文学」(一九五二年六月)には、独自の「ねじれ」の感覚が認められる。中村は戦後文学の担い手を「みなそれぞれに戦争の犠牲者めいたポーズをつくり、戦前の文学など俺には何の縁もないといった顔をしたこれらの『新しい』文学者の集団」と呼んでいる(「独白の壁」)。また、戦後文学発生の条件の一つに、「占領下に与えられた『自由』が、多くの作家にとって、実際その創作の上でのすべての束縛の解除と映ったこと」をあげている(「占領下の文学」)。
9 中でこの後、最もこの「ねじれ」に正面からぶつかることになるこの時期の戦後文学者は、三島由紀夫である。彼は、天皇をめぐるねじれ、戦争の死者への態度をめぐるねじれにぶつかり、最後、昭和天皇を否定する天皇制擁護論にたどり着くが、これは、わたしがこの論で展開している現憲法を否定する憲法擁護論(平和憲法選び直し論)に、奇しくもその「ねじれ」の形で、正確に対応している。わたしからすれば、このことは、三島が、戦後日本の問題の核心を生きたことの一証明である。
10 一九九三年八月の細川内閣発足後、十二月に中西啓介防衛庁長官が憲法見直し発言で辞任、その後、一九九四年五月に、発足したばかりの羽田内閣の永野茂門法相が南京大虐殺はでっちあげだという発言を行って非難され、前言を撤回して、辞任、続く一九九四年八月にはやはり発足まもない村山内閣の桜井新環境庁長官が大東亜戦争に侵略の意図はなかった、と発言して、同じく東アジアの諸国に非難され、前言を撤回し、辞任している。
12 第二次世界大戦によるアジア諸国の死者の概数は、文献によって異なる。実教出版の『高校日本史三訂版』(一九九〇年刊)では以下の通りである。中国約一〇〇〇万人、朝鮮約二〇万人、ベトナム約二〇〇万人(大部分は餓死といわれる)、インドネシア約二〇〇万人、フィリピン約一〇〇万人、インド約三五〇万人(大部分はベンガルの餓死者)、シンガポール約八万人、ビルマ約五万人、計約一八八三万人、他に日本約三一〇万人。なお、この他に、『写真記録集 米国版 対日終戦史録』(編纂:日米国国防総省、官公庁資料編纂会発行)によれば、米国陸軍の対日戦争の死者は約一七万五〇〇〇人、うち戦死者約五万二〇〇〇人とされている。
13 広島の原爆による朝鮮・韓国人の死者の存在はわたし達に深い意味をもっている。それは、原爆の死者の無垢性というものにわたし達の疑いを向けさせるたぶんはじめての契機となった。この敗戦の死者の問題の「ねじれ」が浮上するのに、この無垢な死者の碑石が取り除かれることはわたし達に不可欠の条件だったはずである。この文章の初出とほぼ同時期に訳書が刊行されたイアン・ブルマ『戦争の記憶 日本人とドイツ人』によれば、広島の記念公園には本国から強制連行され、広島で働かされている時に原爆にあった朝鮮人犠牲者の碑は、おかれていない。一九七〇年に大韓民国居留民団によって建てられた碑が「平和記念公園の外、片隅に隠れるように」立っている。「のちに地元の朝鮮人がこの慰霊碑を公園内に移転させようとしたが、失敗に終わった。広島市当局は、平和公園には慰霊碑は一つでよいといった。そしてその慰霊碑には朝鮮人の過去帳は納めてもらえなかった」。日本人以外には入れない。しかし、日本人でさえあれば、ほぼ個人の特定なしに入ってしまう、というあり方が、やはりこの平和記念公園と靖国神社の共通性格として浮かび上がる。なお、後者に関連し、死者の遺族の意思を無視しての護国神社への合祀をめぐり、山口県の殉職自衛官未亡人中谷康子が訴訟を起こしたことは記憶に新しい。
14 三島由紀夫の『英霊の声』(一九六六年)は、反逆罪で処刑された二・二六事件の青年将校、特攻隊の死んだ兵士が、自分たちを裏切った天皇を糾弾し、呪謁する小説である。これが昭和天皇への苛烈な批判の書であることについては、別稿、加藤「一九五九年の結婚」を参照のこと(『日本風景論』一九九〇年、所収)。そこでわたしは、この小説の最後に死に顔として現れる「あいまい」きわまりない顔が昭和天皇のそれではないか、と述べたが、それは、一九九四年刊の堂本正樹『劇人三島由紀夫』が記録している三島自身の発言から、そうであったと確認される。三島は、その後、ふがいない天皇に別種の天皇を代置する『文化防衛論』の立場から、自衛隊決起を促す行動に出て自決するが、この三島の戦後への異議申し立ての根拠は、自国の兵士に対する天皇の責任逃避と、兵士の側からの糾弾の(遺族の名による)抑圧がある限り、現存している。この遺族の名に |