きょうこの頃



2021年12月31日(金)

 ブログ参照。
 
http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2021/12/post-b6745b.html

 「彼は国士的発言をされた」

 金丸自民党総務会長(当時)のこの表現で、二階堂進副総裁の一般的イメージは大きく変わったようだ。"灰色高官"、"田中派の番頭"といったこれまでの形容詞はどこかに忘れられ、非主流派もこぞって推す剛直な"薩摩っぽ"政治家という新しい像が、マスコミを通じて打ち出されている。いったい「仕事も趣味も角栄」という"田中派の第一番頭"でありながら、非主流派にも頼りにされる政治家はどういう風土を背景に育つのか。その疑問を胸に抱きながら、私は秋たけなわの鹿児島へと旅立った。

日本の低開発地帯の典型

 鹿児島は、高度成長以降今日にいたるまで、前章の北海道と非常によく似た社会的・経済的条件の下に置かれてきたということができよう。中央から遠く離れた辺地として、両者とも工業を中心とする経済的発展から大きく取り残され、住民の生活は第一次産業である農業や漁業、畜産業に大きく依存せざるをえない。
 今でも止まない若者層の都会への流出をくい止めるために、工業開発による発展を悲願とし、中央官庁や権力との結びつきによる公共投資の導入にひたすら望みを托す。また、農畜産物の自由化の嵐におびえる農民は、強い政治力に頼って嵐を防こうとする。こういう社会的・経済的な環境において、北海道と鹿児島は、日本の低開発地帯の典型として、まったく共通している。
 しかし、その政治的対応の仕方は、まさに日本の北端と南端(沖縄を除いて)であるごとくに対照的である。北海道は、今日いわば最後の"社会党王国"であるのに対し、鹿児島または保守党に残された数少ない"金城湯池"のひとつであるのだ。八三年に行なわれた最初の参議院比例区選挙で、自民党は党として全国平均三五・三欝という得票率しかあげることができなかったが、鹿児島では、五一・五欝を記録し、過半数を獲得した唯一の県となった。
 衆議院選挙では、県選出十議員のうち、ほとんどつねに八議員を自民党で占め、とりわけ鹿児島三区は前回(八三年)選挙にいたるまでの六回、十六年の間、三議席とも自民党で独占しつづけたのである。県会議員も、八四年現在七七鮃が保守系議員で固められており、これは、かの"角栄王国"新潟も及ばない数字である。それに応じて、知事の座も、自治省天下りの官僚(金丸三郎、三期、鎌田要人、二期目)によって二十年近くも占められ、未だかつて革新知事をいただいたことがない。
 こういう違いは、いったいどこから生まれたのだろうか。
 その疑問は、北海道と鹿児島を分かつ別な指標を探ることで、かなりの部分が了解される。その第一は、鹿児島に際立つ貧困・低所得の問題だ。
 鹿児島の地質のほとんどを占める火山灰地ーシラス台地は、水田耕作に向いていない。そして、河川は台地を深くえぐっているため、畑作は大規模な灌漑設備を必要とする。その上、広大な原野に近代になって植民した北海道と異なって、二千年来、人が住みつき耕作してきた鹿児島は、人口も多い。その結果、鹿児島の農業の経営規模は一般に零細で、一戸あたりの平均耕地面積○・七ヘクタール(町歩)は、北海道はもちろん全国平均一・ニハ茄をも大きく下まわり、農業生産性も=全国の六割程度に止まっている。それは農業というよりは、かつかつに暮らしを立てる生業というにふさわしい。そしてこういう農業に従事する世帯は未だに二九欝(岩手、秋田などと並んで全国最高水準)もあり、鹿児島県の単一最大の従事者をかかえる産業となっているのである。
 このようにして、冷害もない南国の農業県鹿児島は、戦後長い間、一人あたり県民所得において全国最低の貧乏県であった。"ハイテクランド鹿児島"の夢をかかげて工業誘致に努め、国際空港を開設して"東南アジアへの玄関"を自称している今日においても、県民平均所得は全国水準の七二欝(北海道の七七欝、入一年度)しかなく、沖縄をわずかにこえて青森とともに下から第二位を争っているのである。
 その影響はさまざまな社会的指標に刻印されている。たとえば、鹿児島では、新聞や書籍雑誌の一人あたり販売率は、全国で下位から一、二位であり、生活保護率も七、八位の高水準、乳児死亡率はいたましいことにダントツの一位である。また、若年層が老人を残して関西や東京へ出てしまうため、老人人口比率も全国で二番目だが、老人だけの世帯の比率は際立って高い一位である。それにともない、年金や恩給だけで生活する世帯数も全世帯数の約一五欝、全国平均の三倍もある。
 鹿児島は、人口あたりにして日本一サラリーマン(給与所得者)が少なく、目本一恩給年金生活者が多い県なのである。こういうさまざまな指標の中で、大学進学率だけは、所得と不釣合(?)に高く、北海道や教育県長野をも追い越して全国二十九位(入三年)を占めている。それは明治以来伝統的に根強い鹿児島県人の中央志向、上昇志向のあらわれでもあるのだろう。
 このような土壌が、保守勢力の強固な地盤と結びついていることは明らかだろう。しかし、貧困あるいは低所得が、直ちに保守化と連動しないことも、中南米諸国の例を見れば明らかだ。そこには絶対的な貧困と巨大な貧富の格差という問題が加わって、抑圧的な支配と革命的な蜂起が悪循環しているのである。とすれば、鹿児島の保守地盤には、明らかに鹿児島の歴史的伝統や社会構造の問題が、そしてさらにまた戦後の民主化と経済成長という条件が加わっていると考えられなくてはならない。ここで貧困や低所得とはいっても、それは目本内部での相対的な話であり、餓死者ひとり出るわけでなく、農家には家電製品も普及し、六〇年代には全国平均を一〇欝以上も下まわっていた高校進学率も、八○年代には九〇パーセントそこそこと全国並みのレベルに達している。
要するに、今日の鹿児島は、一見したところでは、都市も農村も、日本のどこでも見られる都市や農村と何ら変わりはないのである。
 そしてまた同時にここで、こういう相対的貧困からの救済者としての国家に対する強い期待と恩恵の実感が働きつづけていることも、見逃すわけにはゆかない。戦後四十年の間に、国家財政の援助によって、確かに道路は良くなり、畑の灌漑設備などの基盤整傭も行なわれた。農業や畜産業は、さまざまな助成金、補助金の網の目を通じて、手厚く保護されてきている。選挙で、官
(p.118-121)

 しかし、彼は日本自由党(吉田派)に入党、保守合同後、反官僚派で農政のボスだった河野一郎に接近。河野の死後は河野派を継いだ中曽根と歩みをともにし、一時、山中グループを旗上げしたりしたが、資金が続かず、今は中曽根派の重鎮として戻っている。初立候補以来十二回連続当選、落選したことがない。
 こういうキャリアをみると、そこに中川一郎、浜田幸一あるいは二階堂や田中角栄にさえ通じる今日の保守党リーダーの一つの共通な側面が浮かび上がってくる。彼らはみな、戦後の民主化、近代化という時代の波を背景に、戦前の権威主義的な旦那衆の支配に抵抗して立ち上がった新しい青年リーダーであり、その底辺では、四〇年代後半の社会党的な革新意識と部分的に重なり合っていたのである。それがまた、彼らが高度成長時代に保守党の中核を占めるようになるにつれ、生活の向上と近代化を旗印としてかつての革新支持の大衆を保守党へと吸収し、保守党の永続支配を展開させた一つの原因でもあったのだ。
 三区を保守党が独占するようになったのも、この時代からである。田崎町長も、かつての青年団運動の後輩であり、そのOBたちがつズった青壮年同志会は、今の鹿児島政界での山中人派の背景をなしている。
「しかし、二階堂と比べれば、山中は河野、中曽根派という自民党の中の傍系、党人派グループでがんばり通したので、損をしてきたと思います。われわれとしては少しでも早く農林大臣になって貰いたかった」
 こう語るのは、山中の後を継いで曾於郡から選出されている海野健次県議だ。しかし、曾於郡では、県議、町長すべてが山中ともちつもたれつの選挙を行なうこともあって、山中の選挙は、絶対的に固い。
「固いために、山中は政治家として苦労が足りない面がある。地元にも選挙の時しか帰ってこないし、自分で金づくりもしないのではたの者がいつも苦労する。いわば"殿様選挙"ですな」
 いうなれば、選挙はもはや山中個人の選挙ではない。襲の国を支配する山中党の選挙なのだ。
同じ選挙組織(マシロン)が、国政選挙から地方選挙にいたるまで、この山中党の候補者への投票を獲得するために動く。各町の山中後援会の会長は、地元の町長か町議会の議長が務め、有権者一万五千人の末吉町で山中後援会員は九千人を擁して、にらみをきかせるのだ。そしてそれが、二階堂のように一家であるより党であるのは、その中核が青年団以来の同志的団結で結ばれているからである。
 しかし、この町の唯一の反山中組織の拠点である自治労末吉支部は、山中選挙の実態は、今日ではありふれた土建選挙にすぎないと断定的にいう。町職組は、新しく建設された町役場に組合事務所をつくる件で町長ともめ、三役が解雇されたために闘争中だが、昨年、県地区労に加盟し社会党候補の選挙を積極的に支援したことも対立の背景になっているようだ。
「有川組、川端組など町の土建業者は、三山会という山中後援組織をつくり、選挙ではいわゆる裏選対をつくって集票活動を熱心にやっています」
(p.134-135)



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