きょうこの頃



2021年12月18日(土)

 野地秩嘉『キャンティ物語』読了。

 ブログ参照

 そんな「キャンティ」にはいつも見かける人々がいた。作家の三島由紀夫、安部公房、丸谷才一、作曲家の黛敏郎、團伊玖磨、画家の今井俊満、堂本尚郎、岡本太郎、建築家の村田豊、映画監督の黒澤明、谷口千吉、山本薩夫、演出家の伊藤道郎、千田是也、浅利慶太、草月流の勅使河原宏、プロデューサーの小谷正一、評論家の占波蔵保好、海藤日出男、安倍寧……。そうした大人達に混じって、幸雄や和子は年の若い友入と一緒だった。
 川添家のふたりの息子、象郎と光郎を筆頭に、歌手のミッキ!・カーチス、後にグループサウンズ、ザ・スパイダースを結成する田辺昭知とかまやつひろし、堺正章、井上順、ザ・タイガースの加橋かつみ、ザ・テンプターズの萩原健一、レーサーの生沢徹、アパレル会社「アルファキュービック」を経営する柴田良三、作曲家の村井邦彦、俳優の岡田真澄、伊丹十三、石坂浩二、女優の加賀まりこ、大原麗子、作詞家の安井かずみ……そういった若者達は、毎日「キャンティ」に立ち寄り、大人達と背伸びした会話をすることで満足を覚えたり、若者だけの時はとりとめのない話をしながらスパゲティを食べたりするのが日課のようになっていた。小さな店はいつもの常連でいっぱいとなり、普通の客が入ってこられるような状態ではなかった。「キャンティ」は一九六〇年に開店してから幸雄が死ぬまでの十年間、レストランというより川添家の友人が集まるダイニングキッチンと呼んでもいい場所だった。そして現在でこそダイニングキッチンという匂いはうすらいだものの、それでも文化人、芸能人達は顔を見せる。写真家の篠山紀信、作家の森瑞子、村上龍、林真理子、田中康夫、キャスターの久米宏、黒柳徹子、ミュージシャンの松任谷由実、細野晴臣、坂本龍一、俳優の勝新太郎、ビートたけし、奥田瑛二、宮沢りえ。
(p.28-29)

  そのスパゲティ・バジリコは一九六〇年の開店当初が二百円で、数年後には三百円になる。
 ラーメン一杯が三十円から四十円の頃で、たとえ帝国ホテルでスパゲティを頼んでも百五十円以上取られることはなかった。ちなみに当時、ルノーの箱型が使われていたタクシーの初乗り料金は八十円。銀座から飯倉の「キャンティ」までの料金は百四+円だった。
 開店してからの十年間、一九六〇年から六九年にかけての日々は、「キャンティ」にとっても、そこに出入りしていた客達にとっても、たくさんの思い出が詰まっている時間だった。
 その中心は浩史と同じ世代の友人達。三島由紀夫、黛敏郎、今井俊満、鹿内信隆、古波蔵保好、海藤日出男、石津謙介、勅使河原宏、彼らも四十代の働き盛りで仕事をしていても、酒を飲んでいても、恋をしていても、もっとも充実していた時期であり、彼らはちょうどその時に「キャンティ」と出会った。そして、そうした働きざかりのキラキラと輝く人々を隅の席から背を伸ばして眺めていたのが、浩史の息子の象郎、光郎と同じ世代の、若く無名の友人達。
 レーサーの福澤幸雄、生沢徹、歌手のミッキー・カーチス、ザ・スパイダースの田辺昭知、かまやつひろし、作曲家の村井邦彦、女優の加賀まりこ、作詞家の安井かずみ。
 なかには名をなしていた者もいる。しかし、彼ら自身は三島由紀夫や黛敏郎の前に出ると、まだまだ自分達が一人前とは思えなかった。だが彼らは、いつか三島や黛を追い越してやろうと気負い、自分達の未来と可能性を素直に信じていた。
 彼らは浩史をパパと呼び、梶子をタンタンと呼んだ。象郎と光郎を兄弟のように思い、友人というより、浩史とタンタンが作った「キャンティ」という家族の一員だった。そして、その若者達の中心には一番早く命を失う福澤幸雄がいて、福澤は「キャンティ」にいた若い世代のなかでも、もっとも大人びていた。
(p.140-141)

あとがき

 子どもの心を持った大人達と大人の心を持った子ども達の店。
 川添浩史と梶子は「キャンティ」をこう表現した。そのふたりが店をはじめた頃の様子は飯倉にあるキャンティ本店の地下だけに残っている。いまでも夜が更けてくれば作家、写真家、画家、ジャーナリスト、俳優、ミュージシャンといった人々がこの店に集まり食事をしているが、お互いにテーブルを行き来しているふうではなく、たまたまその場に居合わせているようで、それぞれワインを飲みパスタを口に運んでいる。つまり現在の「キャンティ」はいわゆる老舗のイタリア料理店なのだ。ただ他の店と違う点を挙げれば、「キャンティ」には二十年以上勤めるウェイターが十五人いるからプロフェッショナルのサービスとはこういうものなのかという気持ちの良さを感ずることができる。彼らは適度に客との距離を保ち、注文したそうな素振りをするだげでさっと寄って来る。客に個人的な話をすることなどなく、客に媚びるような卑しい表情をした従業員はいない。そこは他のイタリア料理店と違う。
 この本の取材で多くの方々にお目にかかったが、海藤日出男、小谷正一、嵯峨善兵、鹿内信隆、鈴木重夫、早崎治、安井かずみの諸氏は亡くなられた。インタビューさせていただいたことに心より感謝し、ご冥福を祈ります。そして小谷正一氏と安井かずみさんのおふたりは私にとって忘れられない思い出となっている。
 小谷氏は川添浩史氏のことを話し終えると、他の友人達についての思い出を語りだした。
毎日新聞時代、同期で入社した作家の井上靖氏と毎週土曜の夜に下宿に集まり、詩を書き批評し合ったこと、旧制高校時代に一番優秀だった友達が脳の病気で若くして死んだこと……。小谷氏ほど面白い話をする人に会ったことがなかった私は三時間も彼の話に聞き入った。
 帰りがけに小谷氏が「ちょっと」と私の肩をつついた。
「君は一番大切な人を見落としとる」
「誰でしょうか」
 私はメモ帳をもう一度取り出した。
「川添だよ。あいつが生きてたら、あいつに聞けばいい。俺みたいなやけくそで生きて年寄りの話を聞いても何にもならん」
 小谷氏はにやりともせずそう言ってドアを閉めた。私にはそれが冗談なのかそれとも取材について何か心得を気づかせてくれようとしたのか、その時はよく分からなかった。しかし、いまになってみればあれは明治の人間が持つおおらかなユーモアだったように思う。
 安井さんはインタビューの時、少女のようだった。「あれも教えてあげる。これもちゃんと書きなさい」と素晴らしい記憶力で、川添梶子さんが着ていた服の色やデザインまで細かく教えてくれた。
「私と(加賀)まりこは「キャンティ」のペットだった。まりこはきれいだから。私はちびで色が黒くてぶすだったけどフランス語が話せたからタンタンが可愛がってくれた……」
 そう言う安井さんに「そんなことありません。充分おきれいですよ」という意志を伝えたくて、顔の美醜についてきわどい冗談を言ったら、安井さんは大声で笑って、その後で少し泣いた。それを思い出す。
 また、さまざまな場所へも取材に出かけた。
 パリではモンマルトルのカフェを覗き、浩史氏が住んでいたアパートを探した。フィレンツェではエミリオ・グレコの弟子を訪ね、梶子さんが大理石を切り出した町カラーラまで足を伸ばした。ニューヨークではロバート・キャパの弟コーネル・キャパ氏の話を聞き、フロリダではミッキー・カーチス氏の元マネージャーで「キャンティ」の常連、マイク・ウォーカー氏に会った。六年間というもの、金を稼ぎながら文を書く自転車操業の日々だったが、これほど楽しい夢のような時間もなかった。
 レオナルド・ダ・ビンチはこう言っている。「画家はふたつのものを描かねばならない。
ひとつは目に見えるものである。もうひとつは目に見えない精神である」と。
 私は果たして川添浩史と梶子の精神にどこまで手を伸ばすことができたのだろうか。


●取材、資料収集にご協力いただいた方々ありがとうございました。貴重なお時間をいただぎ,感謝しております。
吾妻徳穂、安倍寧、生沢徹、石井勇、石井好子、石津謙介、井上清一、今井俊満、植村攻、遠入昇、大原麗子、岡田真澄、加賀まりこ、景山民夫、加橋かつみ、かまやつひろし、河合肇、北山孝雄、貴田マリ、小石原昭、甲賀正治、上月晃、古波蔵保好、小林君枝、ジェリー伊藤、シー・ユー・チェン、柴田良三、下瀬伊都男、杉本尉二、関口長次郎、瀬崎嘉久、武末禮子、竹山公士、高橋真行、田辺昭知、玉置春夫、勅使河原宏、寺川知男、寺田稔、根津正明、博多良祐、花田紀凱、花田美奈子、羽根田公男、原智恵子、原田啓二、福井雅英、福澤エミ、風吹ジュン、古田信義、細野晴臣、永倉万治、永野宏、永山武臣、馬忠仁 町田實、松尾文博、松田和子、松任谷由実、松本洋子、黛敏郎、村井邦彦、村田洋子、村山珠規、三浦昇、三好淳之、ミッキi・カーチス、森岡輝成、矢野豊比古、山口洋子、山崎順啓、山田和三郎、山根昌久、横田定吉、渡辺信吉、渡邊美佐
コーネル・キャパ、フランシス・ハ!ル、マイク・ウォーカー、ルイ・キャステル

●取材、資料収集に力を貸して下さった方々
大沢尚芳、栃久保昭道、村岡和彦、ミミ・コールマン
そして何より川添象郎、光郎ご兄弟には大変お世話になりました。ありがとうございました。





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