きょうこの頃



2021年12月12日(日)

 イルマ・ラクーザ『ラングザマー: 世界文学でたどる旅 (境界の文学) 』読了。

 ブログ参照;http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2021/11/post-83c555.html

 グローバル資本主義や、短期間の経営管理のさまざまな要請に対応するために、仕事や住む場所や生活形態をたえず変えてゆく現代人があちこちさまようことを.セネットは「ドリフト」と呼んでいる。そしてその結果は? 社会のなかで根無し草となり、仕事や個人のアイデンティティが不安定となり、そしてストレス、無気力が生まれている。
 こういった症候群は、権力がテキパキと仮借なく再分配され、責任感やモラルが稀少価値となっている管理職たちのフロアでも停止することはない。キャリアの頂点に立つものはたいてい心身のダメージの点でも頂点に立っている。最高の「パフォーマンス」と最高の生活を目指しながらも、そういう人は結局、自分自身をすり減らしているのであり、そのためにいつしか人間関係が劣ってしまうことすらある。そういった人にとってお金と同じくらい大切な時間(ベンジャミン・フランクリン「タイム・イズ・マネー」)が完全に失われてしまうことはさておくとして。『私たちは眠らない』ーカトリン・レグラは、彼女の長篇小説(これは実際のインタビューに基づいたものである)をこう名づけている。この小説は管理職の悲惨さを徹底的に表現している。この小説でもっとも不気味なところは、彼ら「長」のつく人たちが、自らの精神状態を自分自身ではもはや表わすことができなくなっていることである。そこで使われている言葉自体は、いまでは決まり切った表現、ステレオタイプとなっているものだ。広告が日々大量に生み出している吹き出しのなかの言葉といってもよい。退屈でどこにでもあるような言葉だ。
(42〜43頁)

 速さはどうやら伝染するばかりではない。すでに自己目的的な性格をほ癒手中にしている。そしてさらなる加速を求めている。成長の限界、あるいはその他の限界について知りたいと思う人はいない。そういった限界は、現在のターボ経済の歯止めの効かない圧倒的膨張の要求とは相容れないものなのである。しかし、崩壊と内破の兆しが現われる前に、過剰な速度が蔓延していることへの警告に対して注意を向けるべきだろう。例えばそれは、暴走によって引き起こされた交通死亡事故(フランスの高速道路には「速さ? それとも命?」という簡潔明瞭な標語が掲げられている)であったり、大気圏内の排気ガスであったり、渋滞によって動かなくなった道路であったり、身体的・精神的なストレス症状(「急ぎ病」「加速症」「圧縮疲労」)であったり、生産の加速度的オートメーション化によって生み出された失業状態であったり、「情報爆弾」(ポール・ヴィリリオ)であったりする。ヴィリリオのいう「情報爆弾」が人間のうちに与えるヴァーチャル効果は、リアルなものに対する感覚,とりわけ苦しみや暴力の現実に対する感覚をも圧殺してしまう。
 警告を発する声はすでに存在するし、ソフトなトレンドの変化を宣伝するものもいろいろある。『スロー・ダウン・ユア・ライフ』や『世界のテンポ』といったタイトルのアドバイス的実用書もあれば、ゆっくりすることの再発見のためのインターネット・サイト『時間遅滞協会』(www.zeitverein.com)や『ナマケモノ・クラブ』(www.slothclub.or.)、あるいは『スローライフ』(www.slow-life.net)といったものもある。『スローシテイーズ』(www.cittaslow.net)や『スローフード』(www.slowfood.de)のようなサイトももてはやされていて、巧妙なマーケティング戦略を追求している。交通に落ち着きがあり、環境に配慮した施策をおこなう(イタリァやその他の)小都市では、「急がば回れ」も一般的であるし、「ゆっくりとした」地方の食堂では健康的な、オーガニック生産物による料理を楽しむ雰囲気もある。それで結構。こういったコンセプトは、その商業主義的な観点を越えて、ヴィリリオが「知覚の新しい倫理」と言い表わしているものに相応する。

(76〜77頁)



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