きょうこの頃



2021年12月5日(日)

ブログ参照。
http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2021/12/post-521fe4.html

  「少年時代」は下記の期間の自伝的小説。

J.M.クッツェー年譜/著作リスト

[年譜]
1940(誕生) 2月9日、ジョン・マクスウェル・クッツェーは、ザカライアス・クッツェー(191211988)とヴェラ・ヒルドレッド・ヴェーメイエル・クッツェー(190411985)の最初の子としてケープタウンのモーブレイに生まれる。誕生直後から母親と住居を転々とする。父親は弁護士、母親は小学校教師。
 クッッェーという名の由来は17世紀にヨーロッパからケープ植民地に移民したオランダ系植民者まで遡ることができるが、代を重ねるにつれイギリス系を含むさまざまな系譜が入り混じる。フユーエルフォンテイン農場のクッツェー家初代所有者だった祖父ゲリット・マクスウェル・クッツェーは、最初の男の子にゲリットという名をつける家系に生まれたアフリカーンス(母親はイギリス系の名)だがクリケットに興じる親英派で、子供たちは英語混じりのアフリカーンス語を日常語とした。
 母親ヴェラもまたアフリカーンスの混成家族の生まれ。宣教師としてドイツ(現ポーランドのポメラニア)から南アフリカへやってきた曾祖父バルタザール・ドゥ・ビールが、モラビア出身の宣教師の娘アンナ・ルイザ・ブレヒャーと結婚、一家で渡米中にヴェラの母親ルイザが生まれる。ルイザの夫ピート・ヴェーメイエルもまた17世紀にオランダ東インド会社社員としてケープ植民地へやってきたドイツ系の祖先をもつアフリカーンス。ルイザとピートは英語もオランダ語もできたが、子供たちには英語の名をつけ(ローランド、ウィニフレッド、エレン、ヴェラ、ノーマン、ランスロット)、家庭でも英語を使用。娘ヴェラもまたザカライアス・クッツェーと結婚したのち家庭では英語を使い、子供たちを英語で教育する。
1941(2歳) 5月、父親が負債を帳消しにするため南アフリカ軍に従軍。
1943(3歳) 4月、母子がヨハネスブルグに住んでいるとき、弟デイヴィヅド・キース・クヅツェー(1943-2010)が誕生。
1944-45(4ー5歳) 父方の農場に滞在中、カラードの子供たちと遊んでいてアフリカーンス語が話せるようになる。リベラルな考えの両親のもと、家庭では英語が使われ、教育も英語で受け、作晶も英語で書くようになる少年は、英語とアフリカーンス語が飛び交う混成文化のなかでバイリンガルとして育つ。第二次世界大戦が終り、北アフリカ、中東、イタリアで南ア軍に従軍していた父親が帰還。
1946(6歳) 一家でポルスモアの帰還兵士用宿舎に住む。1月、ポルスモア小学校に入学。二学期に教師の配慮で一年飛び級。それ以後、学業は問題なくこなせたが、周囲の子供より身体的に幼いことに悩む。父親が帰還兵向け住宅局勤務になり、ローズバンクへ引っ越す。ローズバンク小学校へ転校。
1948(8歳) 5月、選挙でアフリカーナ民族主義を奉じる国民党が政権を掌握し、アパルトヘイト政策を打ち出す。父親が公務員職を失う。
1949(9歳) 父親がヴスターのスタングード・カナーズに職を得て、5月に一家で内陸へ引っ越す。ヴスターの男子小学校スタンダード3に転入。教会に行かず、子供をアフリカーンス語で教育しようとしない両親は、偏狭なアフリカーナ民族主義者から「裏切り者」と見なされ、ジョン自身も学校で文化摩擦の矢面に立たされる。
1951(11歳) 父親が弁護士業を再開するため、年末にケープタウンに戻り、都会生活の寛容さに安堵を見いだす。
1952-56(12〜16歳) 家族、親族はプロテスタントだが、マリスト修道会が運営するカトリヅク系の聖ジョゼフ・カレッジへ入学。アパルトヘイト政策により締めつけが厳しさを増す教育制度のなかで、陸の孤島のような、比較的自由な雰囲気の学校でギリシア人やユダヤ人の混じる生徒たちと思春期をすごす。
 最初はプラムステッドのエヴァモンド通り、隣接するミルフォード通りの借家に住んで列車通学をするが、ロンデポッシュへ引っ越し、徒歩数分の距離となる。クリケットのクラブに入り、詩作に熱中。再会したローズバンク時代の友人ニック・スタサキスと写真に凝り、自宅に暗室を設ける。以後、写真への関心を持ちつづける。友人たちと西洋古典やロシア文学を読みあさる。バッハに音楽の古典を見出し、母親にせがんでピアノを買ってもらう。父親の弁護士事務所経営が破綻し、借金がかさむ。聖ジョゼフ・カレッジを卒業。


 最初はプラムステッドのエヴァモンド通り、隣接するミルフォード通りの借家に住んで列車通学をするが、ロンデポッシュへ引っ越し、徒歩数分の距離となる。クリケットのクラブに入り、詩作に熱中。再会したローズバンク時代の友人ニック・スタサキスと写真に凝り、自宅に暗室を設ける。以後、写真への関心を持ちつづける。友人たちと西洋古典やロシア文学を読みあさる。バッハに音楽の古典を見出し、母親にせがんでピアノを買ってもらう。父親の弁護士事務所経営が破綻し、借金がかさむ。聖ジョゼフ・カレッジを卒業。
1957(17歳) ケープタウン大学(UCT)に入学。
母親の犠牲的行為を見るのが嫌で、モーブレイに部屋を借りて自立。奨学金やアルバイトから得た収入で諸経費をまかなう。父親の飲酒癖と借財が家族にもたらした困窮や、アパルトヘイト体制下で政府が強いる徴兵などから逃亡するため、学位取得後は海外へ移住する決意を固める。ガノ:ハブ1スの創作の授業に出席。T・S・エリオット、エズラ・パウンドの詩法に学びながら詩を書く。
1958(18歳) 母方の大叔母アニーの死去。中古の茶色のフィアット500を購入。ジョンティ・ドライヴァーらと年刊文芸誌「フローテ・スキュール」を編集、詩を発表する。
195。・(19歳) 1学年下に在籍した演劇専攻のモーナ・フィリパ・ジャバー(193911990)と出会い、『ドン・キホーテ』の詩劇化を試みる。
1960(20歳) 3月21日、トランスヴァール州シャープヴィルで平和裡に行われていた集会の参加者を警察が水平撃ちし、69人が殺される。3月30日早朝、ケープタウン郊外のタウンシップ、ランガで警察が住民を急襲大きな抗議デモが起きる。徴兵制が厳しくなる。英文学の学士号取得。
1961(21歳) 数学の学士号取得。12月、卒業と同時にイギリスへ向かう。南アフリカは国名を共和国に変えてコモンウェルスを脱退。
1962(22歳) 1月、サウサンプトン港に到着し列車でロンドンへ向かう。北部ハイゲイトに住み、IBMでコンピュータ・プログラマーとして働きながらエヴリマンシネマで最新映画を楽しみ、BBCの第三プログラムで音楽や詩の新潮流を知る。奨学金を得てUCT修士過程に在外学生として籍を置き、ガイ・ハワースの指導のもとにフォード・マドックス・フォードの作品について修士論文を準備。英国図書館でフォードの他作品を読んで落胆、南部アフリカの初期探検記を発見。10月、キュ!バ危機。
1963(23歳) 森にIBMを辞め、空路アエロフロート機でロンドンからハルツーム、カンパラ、ケープタウンへと乗り継ぎ帰国。パールルで女子高校の教師をしていたフィリパ・ジャバーと再会、7月に結婚。ガーデンズのフラットに住み、フィリパのタイプライターで修士論文を打ちあげ、H月に提出、修士号を取得。12月末、新婚夫婦は船でロンドンへ。
1964(24歳) 1月10日下船。サレーのバグショット
に住み、2月10日からブラックネルのインターナショナル・コンピューターズで働きはじめる。ケンブリッジに通いながら作業をし、オールダマストンでプログラムをインストール。 ロンドンの書店でサミュエル・ベケットの『ワット』を発見。米国の大学に行く準備を開始する。リヴォニア裁判でネルソン・マンデラ等に終身刑。
196525歳) 弟のデイヴィヅドがロンドンへ。母親ヴェラが2人の息子をロンドンに訪ねる。8月30日、サウサンプトンからイタリア船オーレリア号でニューヨークへ。9月8日に下船。オースティンのテキサス大学大学院博士課程にフルブライト奨学生として、学費免除、年額2300ドル支給、新入生に英作文を教える条件で籍を置く。図書館でペケットの手書き原稿を発見し、初期小説の言語学的研究に打ち込む。
西南アフリカやナマクワランドへの探検記録を発兄。17畦紀から宣教師たちが編纂してきたナマ語の語彙集、文法書などを読む。ドイツ語、オランダ語などを集中的に学ぷ。
(*クッツェー自身はDPのインタビューで2100ドルと述べているが、テキサス大学からの手紙では2300ドルだとカンネメイヤ〜は記している。)
1966(26歳) 6月、長男ニコラス誕生。
1967(27歳) テキサス大学フェローとなる。広く英文学を教えるが、アフリカ出身者としての要請に応えるため、アフリカ文学全般を集中的に読む。
1968(28歳) 4月、フィリパがニコラスを連れて南アフリカへ一時帰国。7月、ニューヨーク州立大学バッファロー校に職をえて移動。8月、フィリパたちが合流。11月、長女ギゼラ誕生。この年、マルセルス・エマンツの箆き息ミ§ミ9ミ鍵§の翻訳を開始(出版は75年)。
1969(29歳) 1月、ベケットの英語小説の文体分析
論で博士号取得。カナダや香港の大学で教える選択肢も視野に入れて、米国永住の方法を探りつづける。ベケットがノーベル文学賞を受賞。
1970(30歳) 南アフリカへの帰国を回避しながら、
1月1日、第一小説Dusklands(『ダスクランド』)の後半部となる「ヤコブス・クッツェーの語り」を書きはじめる。全国的なヴェトナム反戦運動が高まるなか、3月15日、クッツェーを含む45人の教師たちが、一方的に学生を処分し学内に警察を常駐させる学長代行との話し合いを求めて管理棟へ到着、学長代行はあらわれず、教師たち全員が逮捕され起訴される(1年後に全員無罪)。米国永住が不可能となり、南アフリカの教育制度下で子供を育てたくないという願望が断たれる。12月、妻フィリパと子供たちが米国を出て南アへ帰国。
1971(31歳) 奨学金授与の条件に、いずれ生国へ戻り、勉学で得た知識を自国文化のために役立てなければならないと明記されていたことや、逮捕によってヴィザ延長の見込みが断たれたこともあり、5月、クッツェー自身も未完成の第一小説の草稿を抱えて、やむなく南アフリカへ帰国。フユーエルフォンテイン近くのマライスグルの農場の空き家に家族で3カ月住み、作品を書きつづける。12月、UCT英文学非常勤講師に任命される。
1972(32歳) 1月2日、「ヤコブス・クッツェーの語り」を完成し、アメリカのエージェントに送り、南ア国内の出版社に持ち込むが不成功に終る。6月11日に「ヴェトナム計画」を書き始める。UCTの英文学講師に任命される。フレンカイルン、ウィンバーグ、トカノ・と移り住む。
1973(33歳) 5月24日、「ヴェトナム計画」を完成。滞米中に英訳したマルセルス・エマンツ著鼠き惑ミミ§9魯§の出版がオランダ翻訳推進協会によって決定(75年にはボストンの出版社からも出る)。二部構成の『ダスクランド』の原稿を南ア国内の出版社や英米のエージェントに送るが不成功に終る。11月、ピーター・ランドールがヨハネスブルグで始めたばかりの出版社レイバンでついに出版が決定。
1974(34歳) 4月、『ダスクランド』を刊行。旧態依然とした西欧中心主義的文学観から抜け出せない南アフリカ文学界での鮮烈なデビューとなる。南ア最高のCNA賞の最終候補となるが、ナディン・ゴ〜ディマの§、9ミ§§§謎に譲る。ヴェジタリアンになる。12月1日、次の作品ミ§§こ駄§9§ミ(『その国の奥で』、邦題は『石の女』)を書きはじめる。この時期、アンゴラ、モザンビーク、南西アフリカ(現ナミビア)、ローデシア(現ジンバブエ)などで民族解放闘争が激化、旧ソ連の挺入れ、キューバ軍のアンゴラ駐留などで緊張感が高まる。南ア政府は南部アフリカ全域で旧植民地白人政権を援助する不安定化をはかる。
1975(35歳) 映画や写真の影響の色濃い実験的テクスト『その国の奥で』は、何度も修正され、より簡潔な凝縮度の高いものに書き換えられ、その過程で場面転換を容易にするため各セクションに番号が付される。異人種間のレイプや性交のシーンが検閲制度に抵触しないか、発禁の危険性をにらみながら、編集者ランドールと何度も手紙のやりとりをする。
   1976(36歳) 5月21日、ランドールに『その国の奥で』の最終原稿を送る。同時にニューヨークとロンドンのエージェントにも送付。検閲委員会の出方に備えて出版を確実にする種々の方法を探る。6月16日、ソウェト蜂起勃発、教育言語をアフリカーンス語にするという教育省方針に反発したソウェトの黒人中高生が抗議を開始、全国に広がる。11月、UCTの上級講師に任命され、研究室をあたえられる。
1977(37歳) 6月、英国でセッカー&ウォーバーグ
版『その国の奥で』を刊行。米国ではハーパi社からきミ導、§羅暴§識ミのタイトルで出る。9月、次作の執筆に着手、最初はケープタウンを舞台にした作品だったが、すぐに放棄し、何度も改稿を重ね、架空の時空間を舞台にしたWaiing for he Barbarians(『夷狄を待ちながら』)を書く。同月、スティーヴ・ピコが拷問死。『その国の奥で』がモフォロ・プロマー賞を受賞。
1978(38歳) 2月、レイバンからバイリンガル版
(対話部分にアフリカーンス語を含む)『その国の奥で』を出版、3月に1977年のCNA賞を受賞。ロンデポッシュへ引っ越す。
1979(39歳) 渡米して客員教授としてテキサス大学
で半年、カリフォルニア大学バークリー校で3カ月教えながら、言語学の新潮流を学ぷ。渡米中に『夷狄を待ちながら』を完成、7月、エージェントに原稿を送る。
1980(40歳) 10月、『夷狄を待ちながら』を刊行し、英国のジョプリi・フェイバー賞とジェイムズ・テイト・ブラック・メモリアル賞を受賞、世界的な知名度をえる。南アのCNA賞を受賞(二度目)し、授賞式スピーチで「南アフリカにおける英語の国民文学」という概念について疑問を投じる。数年来、暗礁に乗りあげていた結婚生活を解消し、フィリパと離婚。
1981(41歳) Poems from Chrysanten,by Hans Favereyをオランダ語から英訳。
1982(42歳) ペンギン版『夷狄を待ちながら」が出版され、初作『ダスクランド』も英国で初出版される。
1983(43歳) 9月、LifTimes of Michael K(『マイケル・K』)を刊行して、英国のブッカー・マコンネル賞、南アのCNA賞(三度目)を受賞。
同時に、英語アカデミー南部アフリカ作家賞を受賞。作家としての世界的評価が確立。南アの出版社からの依頼でアフリカーンス語から英訳したウィルマ・ストッケンストロームのThe Expedition to the Baobab Treeを刊行。UCT特別研究員に就任。
1984(44歳) UCT文学部教授に就任。就任記念にジャン・ジャック・ルソーの『告白』の冒頭を引用し「自伝のなかの真実」を講演。
1985(45歳) 3月、母ヴェラの死。『マイケル・K』でフランスのフェミナ・エトランジェ賞を受賞。『その国の奥で』をもとにベルギーのマリオン・ヘンセル監督が映画”Dust"を制作、原作者として非常に不満。ANCが「この国を統治不能に」と呼びかける。7月、P・W・ボタ大統領がイースタン・ケープ州などに非常事態宣言を発令。
1986(46歳) き、(『敵あるいはフォー』)刊行。アンドレ・ブリンクと編集した南アの作家、詩人のアンソロジーA Land Aprt:South African Readerを刊行。6月、非常事態宣言がウェスタン・ケープ州に拡大される。
1987(47歳) 4月、イェルサレム賞受当員。11月、ケープタウンのバクスター劇場で開催されたウィークリー・メイル・ブック・ウィークで「今日の小説」を読みあげて物議をかもす。サミュエル・ベケット財団の後援者になる。自伝的作品のノート作成開始。
1988(48歳) 南アの白人文学の思想行動様式について書いたWhite Writings:On the Culure of Letters inSouth Africaを刊行。6月、父ザカライアスの死。ノーベル文学賞候補者に名前があがる。「南アフリカの農場小説」に関するエッセイでプリングル評論賞を受賞。
1989(49歳) 4月、バルティモアに滞在中、長男ニコラスの死を知る。6月、非常事態宣言が全土に拡大。8月、デクラークが大統領に就任。10月、ウォルター・シスルー等政治囚が解放される。デイヴィヅド・アトウェルとのインタビューを計画。
1990(50歳) 2月2日、非合法組織が合法化され、同月11日、ネルソン・マンデラが釈放される。7月、元妻フィリパの死。9月、Age of Iron(『鉄の時代』)を刊行、サンデー・エクスプレス賞を受賞。マジシ・クネーネにUCTの名誉博士号が授与されるよう尽力。
1991(51歳)2月、The Master of Peterburg(『ペテルブルグの文豪』)を書きはじめる。5月、デクラーク大統領が国会でアパルトヘイト法の撤廃を宣言。8月、ドロシー・ドライヴァーとともに初めてオーストラリアを訪問。アデレードを訪れ、強い印象を受ける。自転車のアーガス・サイクル・ツアーに参加して自己ベストのタイムを出す。オーストリアのグラーツで「古典とは何か」を講演。
1992(52歳) Doubling the Point(文学評論とインタビュー集)を刊行。
1994(54歳) 3月、『ペテルブルグの文豪』を刊行。5月、全人種参加の総選挙の結果、ネルソン・マンデラが大統領になり、アパルトヘイトが完全撤廃される。イタリアのモンデッロ賞を受賞。1995(55歳)2月、憲法制定議会が開会。真実和解委員会が活動開始。UCTから名誉博士号を受ける。7月、母の死後まもなくノート作成を開始した伝記的作品の手書き原稿完成(本書第一部、当初のタイトルは貯§誉ミぎ§欺ミト趨。『ペテルブルグの文豪』がアイリッシュ・タイムズ国際小説賞を受賞。12月、オナンダで
「リアリズムとは何か」を講演。オーストラリアへの移住の可能性を探りはじめる。
1996(56歳) 憲法制定議会が新憲法を採択。11言語が公用語に。新出版法が制定され、検閲制度が廃止される。検閲制度についての評論GivingOffenseを刊行。イタリアのフェロニア.フイアーノ市賞を受賞。10月、Youth(『青年時代』、本書第二部)を書きはじめる。11月、ベニントン・カレッジでの講演「リアリズムとは何か」で、英語圏で初めてエリザベス・コステロが登場。
1997(57歳) 8月、Boyhood(『少年時代』、本書第一部)を刊行。プリンストン大学でノベラ形式の講演をする(のちにき、』"The Lives of Animals(『動物のいのち』)に所収)。
1998(58歳) 多くの講演依頼を辞退し、作家活動に集中する。
1999(59歳) 窯糞(『恥辱』)を刊行してブッカ1賞受賞、賞の歴史上初の二度目の受賞。小説化された講演集『動物のいのち』刊行。南アフリカテレビが..穿。・品。。・、、を制作。大統領がマンデラからムベキに代わる。
2000(60歳) 5月、『恥辱』が南ア与党ANCと人権委員会から批判される。6月、コモンウェルス作家賞を受賞。オランダのテレビ局が"Vande schoonheid en de troost"(「美と慰め」の意)を制作。
2001(61歳) 4月、『青年時代』の原稿を完成。3月、ピータi・ランパックから転送されたカンサス・シティ・スター編集者の『恥辱』をめぐる10の質問に、例外的に答えを返す。9月、Stranger Shores(文学評論集)刊行。11月、サンタフェで『青年時代』から朗読。12月、UCTを退職。
2002(62歳) オーストラリアのアデレードヘドライヴァーとともに移住。アデレード大学客員研究員となる。5月、『青年時代』刊行。オクスフォード大学から名誉博士号を受ける。
2003(63歳) 9月、小説化された講演集ElizabethCostello(『エリザベス・コステロ』)刊行。10月、シカゴ大学でノーベル文学賞受賞を知る。12月、ノーベル賞受賞記念に「彼と彼の部下」を講演、晩餐会スピーチで母と子のエピソードで笑いをとる。イタリアのグリンザーネ・カヴール国際賞受賞。
2004(64歳) Landscapes with Rouers(オランダ語からの訳詩集)を刊行。『エリザベス・コステロ』がオーストラリアのクイーンズランド州知事賞を受賞。6年間のシカゴ大学社会思想委員会のメンバーとしての活動に終止符を打ち、作家活動に専念。この数年は海外からのおびただしい招待を辞退。とりわけ11月の大統領選挙でブッシュが再選されるなら渡米は差し控えると公言する。
2005(65歳) 4月、Summertime(『サマータイム』、本書第三部)を書きはじめる。9月、南アフリカのマプングブエ国家勲章(金)を受賞。同月、Slow Man(『遅い男』)を刊行。フィリップ・グラスが『夷狄を待ちながら』をオペラにし、ドイツのエルフルトで初演。
2006(66歳) 3月、オーストラリアの市民権獲得。6月、ポーランドを訪問し、母方の曾祖父の生地を訪ねる。9月、トリノで短篇「二ートフェルローレン」を朗読。同月末、サミュエル・ベケット生誕百周年記念シンポジウム特別ゲストとして初来日、「ベケットを見る入つの方法」
を講演。
2007(67歳)3月、Inner Workings(文学評論集)刊行。9月、A Diary of a Bad Year刊行。12月初旬、国際交流基金の招聘でドライヴァーとともに再来日、2週間にわたって日本各地を旅行、A Diary of a Bad Yearから朗読する。
2008(68歳) 6月、伝記作家J・C・カンネメイヤーから伝記を書きたいという手紙を受け取る。『恥辱』がオーストラリアのステイ十ヴ・ジェイコブズ監督とアナ・マリア・モンティセッリ脚本で映画化、9月にトロント映画祭で初上映され国際批評家賞を受賞、10月には中東国際映画祭で最優秀作品として黒真珠賞を受賞。
2009(69歳) 2月、弟デイヴィッドの病気を知る。3月、カンネメイヤーがアデレード訪問。5月、ワシントンに弟を見舞う。7月のオランダ語版『サマータイム』に続いて、9月に英語版を刊行、ブッカー賞とコモンウェルス小説賞の最終候補になる。
2010(70歳) 1月、弟デイヴィッドの死。5月、アムステルダムでエヴァ・コッセらの企画で生誕70年を記念するイベントが開かれる。同月、オースティンのテキサス大学を訪れ、南アの検閲制度が自作をどのように扱ったかを語る。6月、フランスのツールーズで開かれた南アフリカ作家祭で「二ートフェルローレン」を朗読。『ナマータイム』がクイーンズランド州知事賞を受賞。
2011(71歳) -月、インドのジャイプール文学祭に参加。南アでクッツェーの肖像をレリーフにしたプロテア金貨が鋳造される。6月、ヨーク大学で開かれたサミュエル・ベケットのシンポジウムで寧、9"§唱ミ§ミから朗読。同月、カナダのキングストン作家祭に参加。9月、一巻にした自伝的三部作縛§題誉ミぎ§鼠ミ』慧(本書)を刊行。10月、関連書類をすべてオースティンのランサム・センターに譲渡。
2012(η歳) 6月、ノリッジ文学祭に参加。7月、ベルギーの作曲家ニコラス・レンスがオペラにした『遅い男』がポーランドのポズナニで初演。9月初めから、ドイツ、フランス、イギリスとまわり、アメリカに渡ってオールバニでポール・オースターと近刊の往復書簡集から朗読、スタンフォード大学で朗読と討論に参加。12月、ヴィッッヴァーテルスラント大学で、独自の教育論を展開する。UCTでThe Childhood of Jesusから朗読。
2013(73歳) 2月下旬、第1回東京国際文芸フェスティヴァルの特別ゲストとして三度目の来日。3月、The Childfood of Jesusとポール・オースターとの往復書簡集Here & Nowを刊行。4月、北京で開かれた第2回中国オーストラリア文学フォーラムに前年のノーベル文学賞受賞作家、莫言と登壇。同月、南アメリカのコロンビアで国際作家セミナーに参加して朗読、検閲制度について語る。9月、ベルリンの国際文学祭に参加。12月、ネルソン・マンデラ死去。
2014(74歳) 4月、チリとアルゼンチンのブックフエアでオースターと朗読。6月、ノリッジ文学祭に参加予定。11月、3日間にわたりアデレードで"Travers:J.M.Coetzee in the World"が開催される予定。
1984-2003のあいだ、米国のニューヨーク州立大学、ジョンズ・ホプキンス大学、ハーヴァード大学、スタンフォード大学、シカゴ大学などで学期単位で教壇に立つ。

(年譜作成にあたっては、おもにNELM版バイオグラフィー、ノーベル賞公式サイト、Doubling the Pointの作家自身の発言、J・C・カンネメイヤi著J.M.Coetzee:A Life in Writing、バリi・ランサム・センターの公式ナイト等を参照した。)





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