きょうこの頃



2021年6月27日(日)

 ブログ参照。
 http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2021/06/post-d400fe.html

かけすぎる生活費

 働く、という言葉の意味はあいまいである。要するにそのことをやっていて楽しければ、それは運動みたいなもので、働くなどという言葉ではぴったりしない。その運動にしても、たとえば水泳で「一位になろう」「記録を上げよう」と無理してからだを使えば、それはもう楽しい運動ではなく労働である。
 ところが、働くなかに喜びを見いだす、とか、汗を流して働く、などと妙な組合わせをする。喜び楽しんでいれば、それは働いているのではなく遊んでいることであるはずだ。また、汗など遊んでいても出てくるし、暑ければじっとしていても出るものなのである。
 私は五十二歳で、したくてしたくてたまらなくなって農業を始めた。くわを振るったり草を刈ったり、農業というのは非常な労働だ。が、他の百姓から私は、まるで土とたわむれているようだ、とよく言われた。いやでやれば労働だ、仕事だ、楽しくやれば遊びだ、と私はきめている。
 五十九歳になってから始めた今の今川焼も、うまいのをこしらえよう、そういうものを売りたいなア、という楽しみでやっているから仕事という気はしない。遊びである。ただし、趣味と実益、とまは威張れない。六十近くなって始めたことで、大きな実益は望めぬだろうし、また望みもしていない。やりたくて始めたことである。やりたいことをやる、というのが生きている証拠だと思う。
 私は、埼玉の農場で暮らせば一カ月に二、三万あればくっていける。ミソやナッパ、ダイコンなどは自分でつくり、出費といえばガス、電気代など限られたものだけだからだ。
 私は、人間三日くらい働いて、あと十日くらいはぼーっとしているのがいいと思う。そのためには、馳
生活程度を下げなければならない。贅沢をしてはだめだ。五万円する立派な背広を着るか、それとも二千五百円のジャンパーにするか、というとき、私なら五万円の背広など肩が張って仕方がないから、そんな物を買うためにゼニをかせこうという気が起きないから、ジャンパーにする。
 生活程度が高ければ、三カ月で畑のものをくってしまい、あとの九カ月は出かせぎということになる。だから酒などをのんだりいろいろしては、これは意味ないと思う。そんなことを言うけど、生活費がかかるんだ、だから働かなければならぬのだ、とぐち混じりに言う人が居る。かかるのではなく、かけるのでは、という気がする。
 また、毎日あくせく働かず、一日かせいで一日遊ぶ、せめてそんな生き方をしてみたいと言う人も居る。だがそれではだめなのだ。せめて、一日働いたら二日以上は遊べなければ、生活程度が上がりすぎていることになると思う。
 寒い中をひと月もひと月半もアルバイトして、四、五万円の金をかせぎ、スキーのために一週間そこそこでそれを使ってしまう学生が居る。こんなやり方は私はいやだ。スキーに行く、泳ぎに行く、旅行に出かける、そのためにあくせく働かなければならないのなら、私はかせがずにぼーっとしている方がいい。
 しかし、それでも行きたいという人が、「行きたい、行きたい」「これだけの金がほしい、ほしい」
と思いながら仕事をするのなら楽しく出来るに違いない。自分は土方をやって、うんと酒をのみたい、というのなら楽しく土方がやれるに違いない。それはもう、仕事をするとか働くとかいうのとは別のことだ。私はこんないき方をしたいと思わぬが、人によってはそれでいいと思う。
「かせぐに追いつく貧乏なし」もしこの言葉が、金持ちになるためには営々と継続して働かなければならぬ、という意味だとしたら、全くいやな無意味な言葉である。私は、今川焼の商売に飽きたらいつでもやめようと思っている。農業に飽きたら今川焼を、それに飽きたら何をやろうか。何がしたくなるだろうか。だから面白い。この商売をあくまでやり通す、そんな責任感なんかで始めたわけではない。
 タバコ屋などで、朝から晩まで店を開け放しにして客を待っているのは、むだなことだと思う。しょうゆや砂糖を売る店にしろ、何も一日中店を開かなくとも、たとえば午前中は十時から十二時まで、午後は四時から六時までと時間をきめて商いをすればよさそうなものだ。客はその時間にちゃんとやって来て買い物をするだろうから、少しもさしつかえはないはずである。スペイン人などは、こうしてあとの時間昼寝をしたり遊んだりするそうだが、それが一番いいことだと思う。
 日本人は働き過ぎだ。そして、働いてばかをみているのが日本人である。楽しむのを忘れ、また無視されて働いてきた。忙しく働くのがあたりまえ、という考えがつづいてきた。遊ぶことは悪いこと、働く以外のことをしていると悪いこと、と白い目で見られる風潮の中で育ってきた。ばかばかしいことである。だから、働くのに〕種の抵抗を感じるヒッピーが現われたのはうんと良いことだと思う。
 働かぬ人間を、「怠け者だ、けしからん」ときめつけることは出来ない。生活の程度を低くして働かぬ、ということはきびしいことなのだ。働く者を、「えらいやつだ」ときめこむことも出来ない。
生活程度を上げるために働くならばかばかしいことだ。
 しかし、 一緒に仕事をやっていて、隣の人は一生懸命やっているのに自分だけ遊んでいる、というのはいけない。それは、怠け者だからいけない、というのではない。こうしたらみんなが平等に、少しでも楽に仕事が出来る、という仕組みが考えられずに放置されていることがいけないのだ。どんなに忙しくてもその中から遊び時間をひねり出す、というより、働いているのが楽しければそれは遊んでいることなのだから、「働きたいな」と思いながら働いていること、そういう仕事の仕方にしたいものだ。
(55-58p.)

わが友  羽仁協子

 彼女は羽仁五郎氏の娘さんで、若い頃からハンガリーへ留学していた。その関係で、私の小説のハンガリー語訳をやってくれていた。いまは日本にいるが、その頃は、「ときどき日本へ帰ってきた」
という状態だった。私と彼女は気が合って、幼なじみというほど親しかった。彼女を、ほかの人に紹介するとき、私は「協子さまは、私の同級生です」と、口ぐせのように言っていた。勿論、私は彼女より三〇歳も年上なのだから、ユーモアを含んではいるが、それほど親しい仲だという紹介の意味だった。
 いつだったか、そのとき、彼女と一緒にいた女性が「アナタ、それを言うのはヤメて、ヤメて、協子さまは、それを言われると背すじが寒くなって、ゾクゾク身ぶるいがするのよ」と、私は言われて「へーえ」と思った。女性は、年を余計に見られるのは冗談でも許されないという、わかりきったことさえ私はツイうっかりしてしまう。いつだったか銀座で食事をして地下鉄の階段をおりながら「こんやは、私の家に行きましょう。将来のことなど一緒に話しましょう」と言いながら私は彼女のソバに寄りそって「あなたの、お父うさんに、許可をうけて」と、彼女の肩に手をかけた。途端、彼女は犯される、犯される」と、身ぶるいをしながら逃げるように人ゴミの中に去ってしまった。
 それから、彼女は十年くらい私とは音信不通になってしまった。彼女は作詞や作曲したりするから芸能人だと思っていたがカタギの女だった。半分ほんとで、半分ウソで、男と女は出来上る芸能人でなかったのが玉にキズだ。男と女は、フザけてキッスなどして、案外、それは、スバラシイ味のするものだが、私には、どーも、良家のヒトは扱いにくい。男性でも、良家のヒトはオフザケが通用しない。だから私の友だちは庶民という人だけなのだ。大学の先生、作家、とても、とても、私はその前にいるだけでも拷問されているようだ。

(145−146p.)

 「みちのくのしのぶもじずり」の歌は京都の尊いお方が作ったのだが、京都の高貴の人が、みちのくのもじずりを、どうして知っていられたのかと不思議に思った。もじずりも染料で高価なものだったそうである。こないだ知ったことだが、「あの、みちのくのもじずりは私の故郷の名物です」と教えてくれたヒトがあった。福島の郡山地方で、「もじずり石」というのが「いまでもあります」という。
石というのは変だが、「私も名を知っているだけで見たことはない」と言う。そのヒトは東京で生れたので話を聞いているだけだという。京都の貴人がもじずりを知っていたのは染料の関係だと思う。
おそらくみちのくに行ったことはないだろう。昔は化学染料がなかったから植物の花や実からとったのだが、現代でも女性の着物で「草木染め」という特別な染めかたがあって、私もいちど見たことはあるが化学染料のようなハデな色ではなく、古ぼけた、くすんだような色の着物だった。中年の女性が着ていて、「ツマラナイ染めかた」だと眺めていた。かなりたってから「あの、草木染めというの
(193p.)

キジゴク〈センゴ亜目セソウ科〉

 まいどのことながら、またまた、われながらあきれかえるような結果論、いや妄想論を編みだすことになってしまった。それは、「さあ、さあ、いよいよ、戦後という時代になったのでございます」ということなのだ。
 戦後というのは一九四五年八月十五日、太平洋戦争が無条件降伏で終った、その翌日から戦後と言われている。だが、それから四十年もたった今、やっと、本物の戦後の時代になったのではないか。
それまでの戦後の四十年間は、ただ、日と時間がたてば戦後だと思いこんでいたのではないだろうか。つまりニセモノを本モノと思いこんでいたのだ。
 ニセモノの戦後は、食うこと、住むことばかりに毎日を送って夢中だった。戦争中も戦後も食う物がなく、それをあさりつづけることで一生懸命だった。戦争で家を焼かれ、バラックを作って、その中に住んで働いて、家を作った。家を作れば税金をとられるのだ。だから、考えようによっては、また、いつでも、戦争を始めれば家を焼くことができるのだ。そうして家を建てさせて税金をとる。なんと、うまいことではないか。
 着るものも、誰もかれも新しく作った。妙なことに誰でも同じ権利があるということを勘ちがいして、誰でも同じような家に住んで、同じように飽食して、同じような衣類を着て、同じようなネックレスをぶらさげることが人間の平等だと思いこんでしまった。
 それから人間平等は誰もが外国旅行をしなければならないことになってしまった。教育も誰もが中学、高校、大学へ行かなければならなくなったし、それから誰もがくるまとゴルフ、酒をのまなければ人間平等でなくなってしまった。
 なんと、そうして、ニセモノの戦後が四十年も過ぎてしまったのだ。
 やっと四十年のニセモノがすぎて、本モノの戦後時代がやってきたのだ。このごろの人間の生態を眺めてごらんなさいよ。
 こないだ、『噂の真相』という雑誌を見ていたら「一億総たかり時代」という字が眼についた。まず、自分のまわりを見てごらんなさいよ。訪問してくる客は、必ずなにかの用件をもってくるのだ。
「なんの用ですかP」と初めての客にはインターホンで聞く。
「べつに、なんの用事もないですが」
 と言う。
「用事のない人など困りますよ」
 と玄関バライをする。
 そういう相手でも必ず、なにかの用事を持ってきているのだ。相手は自分の用件が言えないので、「用件はない」というが、会って話などすると、必ず自分勝手な用件をもちだすのだ。「用件はない」
というのは、なんとかして、うまく話をさせようとするのだから、はじめから、「ない」としか言え ないのだ。
 相手は自分の思うようにならないと、「あいつ  (私)は変ってる」とか「自分勝手だ」とか「嫌な奴だ」とか「悪い奴だ」とかきめるのだ。
 計算すれば、政治家は投票の一票とか、政治ケンキンをたかっている。学校の教員たちは授業料、PTA、に何かをタカる考えが生活だし、国民は税金からなんとか、タカリをしようとしている。人間個人同士はお互いに相手から何かをタカろうとしている。
 自分のちからではなく、タカリしか考えない生活が、まず戦後の生態の第一歩なのだ。
 次に、食いあさりの時代が終って、やっと本モノの食いあさりの生態がやってきた。
 テレビをごらんあそばせ。食うことばかりがチャンネルに朝から夜おそくまで映されている。とくに若い美しい女性、女優とかタレント男が、口をあいて食うものをいれて、食うわ、食うわ、クシャクシャ食っているところを映している。遠いところの食べ物から料理屋から家庭料理まで、「よくまア食えるもんだナー」と思っているうちはまだいいが、あまりそればかり眺めていると、こちらの胸が悪くなって、アゲそうになってしまう。世に言う、
「餓鬼地獄」
 というヤツラだ。
 料理という番組があって、食うものの作りかたを覚えるというテレビの番組はいいことだ。舞踊、茶の湯、生花などより必要な番組だが、同じこの国でもかなり亠離れたところに行って、そこの食べ物を食って見せるのはバカバカしいかぎりだ。
 土地が変れば食べる物も変るのは当り前で、その土地だけしかない材料の食物なのだ。そういう無縁なものをムシャムシャクチャクチャ食って見せても、見るほうにはなんの関係もない。まさか、国中の者たちにその材料を入手しろというわけでもないだろう。
「味はP」ときかれると、
「まろやかです」「こくがありますねえ」「こんないい味は、はじめてです」とか、なんとか味覚を言うが、たいがい、味はその三種類ぐらいしかないようだ。
 だいたい、戦前は、食べるところを他人に見られるのは最低の生態で、人格の失格だと言われていた。食べるところばかりではなく、食べる音、箸の音をたてることさえゲヒン、バカ、下等人種だったのだが。
 餓鬼地獄チャンネルこそ、戦前の美風を吹きとばしてしまったのだ。
 タカることと、食うことから、まず本モノの戦後時代に入ってきた。
 次に、学生の暴力、先生の暴力、先生のいじめから生徒同士のいじめが始まった。これもやっと、本モノの戦後の生態が現れてきたのだ。
 それから、泥棒だ。泥棒の生態が変って、これもタカリの一種だろう「ウソを言って相手のゼニを巻き上げる」。これが商売となってネズミ講、証券売り、宝石売り。
 それから、タカリが出来なくなった者は親が子を殺して一家心中だ。戦前の一家心中は生きていられない苦境にたって、一家が死ぬのだが、いまは、たいがい、子供を殺して母は死なない。夫は母子を殺して自分はポーッとして生きている。親は子を殺し子は親や兄弟を殺す。
 これこそ、本モノの戦後の生態だ。
 それから、それから、老齢社会というヤツだ。長生きという病気なのに、生きてさえいれば寝たきでもいいことになる。これこそ、エセヒューマニズムというヤツだ。
 いや、いや、生きてさえいれば「偉い人だ」というように思われているようだ。それなら枯木でも「倒れるまでは立派な植物だ」ということになるではないか。
 老齢社会は枯木の社会で、これこそ、政治家、医学がニセモノばかりを作ることをいいことだと考えている証拠だ。まだまだ、本モノの戦後はいろいろな現象がでてくるだろう。あと、五十年も、百年もつづくだろう。戦後を正しくするには戦争しかない。つまり、戦争の生態と戦後の生態しか地球上にはなくなったのだ。
(230-234p.)

 て、少年たちの理由のない自殺は生物の本能の「自然淘汰」となった。ホモ、レズも種族を少なくしようとする本能が生んだ自然淘汰だ。
 麻薬患者が人を斬りつけたり、殺したりするのを知って「ああ、自然淘汰だよ」と言って笑われたことが何回もあった。
 そこで、自然淘汰がなくなるのは戦争なのだ。そろそろ、また、戦争がはじまろうとしている。武器製造者たちの本能が作った自然淘汰の品物を使わなければならない戦争がまたやってくるのだ。
(272-273p.)



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