きょうこの頃



2021年6月6日(日)

 つげ義春『新版 貧困旅行記 (新潮文庫)』読了。

旅館 對僊閣(りょかん たいせんかく)
https://kamakura-guide.jp/taisenkaku
鎌倉

後生掛温泉 蒸ノ湯
https://akita-hachimantai.jp/fuke.html
秋田
オンドル
ポロ宿考

 二十年ほど前のことだった。秋田県五能線の八森近くの海辺に沿う崖道(がけみち)を線路づたいに歩いて行くと、線路下の草むらの中に炭焼小屋と見まごう掘立小屋のような宿屋があった。近くに人家はなく、宿屋の周囲は草ぼうぼうで、およそ宿屋をするにはふさわしくない寂しい所で、人に尋ねて教えられた宿屋だったが、看板もなく怪しく眺(なが)めた。片方だけに傾斜したトタン屋根のスソは、土盛りした線路の土手にかぶさり、土手を屋根の支えにしている見すぼらしさで、これが宿屋かと呆然(ぼうぜん)とした。
 宿を乞(こ)うと、腰の曲ったモンペ姿の婆(ばあ)さんが出てきて満室だと云う。中を覗(のぞ)くと屋根の低い方が土間になっており、屋根の高い方が梯子(はしご)で登る中二階の棚(たな)で、そこが客室らしかった。
棚には低い手すりがあるきりだから、うっかりすると落ちそうで、横長に十畳ひと間くらいはあったろうか。その下が婆さんの居間のようで、そこには破れ障子がはまっていた。
 満室といっても誰も泊っている様子はないので、断りの口実なのだろうが、婆さんは場違いな客が来たとみて、怪しい目つきをして取りつくしまもないほど無愛想だった。私はあとになって、どうしてこの宿屋を写真に撮っておかなかったのかひどく悔まれ、今も悔んぐいるが、これほど粗末な宿屋を見たのは空前にして絶後。一体どんな人が泊るのだろうか。設備からして営業許可されるはずはないと思えるから、もぐりの宿屋と考えられるが、こんな宿屋に泊るのは、よくよく貧しい者か、放浪者、不治の病いを負った者とか、私のような精神衰弱者とか犯罪者のような、社会からこぼれてしまった者たちなのではないかと想像をめぐらせてみたりした。
 昔、四国遍路にはカッタイ道という裏道があり、ライ病遍路専用の宿泊小屋のあったこと、また同じ四国に「落し宿」もあったらしいことを宮本常一は書いている。
 ー起原も実態も明かでない宿はそのほかにもある。四国山中に見られる落し宿などもその一つである。泥棒(どろぼう)を泊める宿であった。泥棒もまた一つの職業であった。田舎の泥棒は金をとるのが必ずしも目的ではなかった。物のあるような家にしのびこんで主として食料をとる。その食料を買ってくれるのが落し宿である。泥棒はまたそういう家へ泊まる。たいていは一軒ぽつんとはなれて住んでいた。そういう家を転々として泊まりあるく者もいたのである。そしてまたそういう家へ暗夜ひそかに食料を買いに来る貧しい人たちもいた。物をぬすむということは罪悪ではあるが、その罪悪を黙認する世界があった。それによってうるおうものがまた少くなかったからである。このような宿の話は他の地方ではあまり聞かぬ。善根宿のもっとも多い地帯に落し宿のあったことは、貧いものの世界にはそれなりに一つの連帯社会があったと見られるのであるー
(「日本の宿」昭和四十年、社会思想社刊)
 八森で見た宿屋は、そういう類(たぐ)いの一般にはうかがい知ることのできぬ、世の中の裏側にある宿屋だったのかと、あとになって思った。
 そこまで極端ではなくとも、そういう貧しげな宿屋を見ると私はむやみに泊りたくなる。
そして侘(わび)しい部屋でセンベイ蒲団(ぷとん)に細々とくるまっていると、自分がいかにも零落して、世の中から見捨てられたような心持ちになり、なんともいえぬ安らぎを覚える。
 世の中の関係からはずれるということは、一時的であれ旅そのものがそうであり、ささやかな解放感を味わうことができるが、関係からはずれるということは、関係としての存在である自分からの解放を意味する。私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から脱(の)がれるため旅に出、訳も解(わか)らぬまま、つかの間の安息が得られるポロ宿に惹(ひ)かれていったが、それは、自分から解放されるには"自己否定"しかないことを漠然(ばくぜん)と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に擬そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。
 シュテルナーの「唯一者とその所有」は読んだことがないので孫引きだが、
「完全な自己否定は自由以外の何物でもない」
 ということばに私は納得させられる。自分を締めつけようとする自分を否定する以外に、自分からの解放の方法はないのだと思う。禅では、自我を消滅することによって真の自由が獲得できると説いている。自由とは自分からの自由にほかならない。親鸞(しんらん)の悪人正機説の"悪"の意味も、自己否定と解すことによって、他力宗の"自己放下"を理解することができる。
 私は物ごとを理論的に思考することが苦手なほうで、また学問もないし、勘に頼っているので誤ったことを云ってるのかもしれないが、自分のポロ宿好みをこんな風に考えてみたのだった。
(150-153p.)

内容(「BOOK」データベースより)
日々鬱陶しく息苦しく、そんな日常や現世から、人知れずそっと蒸発してみたい―やむにやまれぬ漂泊の思いを胸に、鄙びた温泉宿をめぐり、人影途絶えた街道で、夕闇よぎる風音を聞く。窓辺の洗濯物や場末のストリップ小屋に郷愁を感じ、俯きかげんの女や寂しげな男の背に共感を覚える…。主に昭和40年代から50年代を、眺め、佇み、感じながら旅した、つげ式紀行エッセイ決定版。

昭和40年~50年の日本の姿を伝える、旅の記録。
当時の各地の様子を写した貴重写真多数収録。

日々鬱陶しく息苦しく、そんな日常や現世から、人知れずそっと蒸発してみたい――やむにやまれぬ漂泊の思いを胸に、鄙びた温泉宿をめぐり、人影途絶えた街道で、夕闇よぎる風音を聞く。窓辺の洗濯物や場末のストリップ小屋に郷愁を感じ、俯きかげんの女や寂しげな男の背に共感を覚える……。
主に昭和40年代から50年代を、眺め、佇み、感じながら旅した、つげ式紀行エッセイ決定版。

つげ義春
マンガ家。1937年、東京都生れ。小学校卒業後、メッキ工場などで働き、1954年にマンガ家デビュー。貸本マンガを経て、1960年代後半から1970年にかけて「月刊漫画ガロ」に発表した諸作は、マンガ史の画期をなす。1987年以降、新作は発表していないが、その作品群は新たな世代のファンを生みつづけている。
 出版社 : 新潮社; 新版 (1995/3/29)
発売日 : 1995/3/29
言語 : 日本語
文庫 : 281ページ
ISBN-10 : 4101328129
ISBN-13 : 978-4101328126

【目次】

旅写真1

1
蒸発旅日記

2
大原・富浦
奥多摩貧困行
下部・湯河原・箱根
鎌倉随歩
伊豆半島周遊
猫町紀行

3
旅写真2

4
日川探勝
ボロ宿考
上州湯宿温泉の旅
養老(年金)鉱泉
丹沢の鉱泉
日原小記

5
秋山村逃亡行
旅籠の思い出

6
旅年譜

あとがき

解説:夏目房之介





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