きょうこの頃



2021年6月2日(水)

 テジュ・コール『オープン・シティ』読了。

 ブログ参照。
 http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2021/05/post-65506d.html

オープン・シティ
デジュ・コール

マクスウェル大学 サイトウ教授 39p
ウィキによれば、
マックスウェル行政大学院(Maxwell School of Citizenship and Public Affairs)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州シラキューズにあるシラキューズ大学を構成する学校の一つ。1924年にGeorge Holmes Maxwellによって創立され、行政学、公共政策学、国際関係学を扱う。大学院は、行政学および公共政策学において高い評価を受けている。

 コロンビア大学プレスビテリアン病院 23p
https://ameblo.jp/onedaymanhattan/entry-10483725188.html
https://sekaidr.com/clinic-list/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%93%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E7%97%85%E9%99%A2%EF%BC%88%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%A2/

 タワーレコード閉店 20p
 瑕疵レコード屋のブロックバスター閉店 24p

ジョン・ブルースター;画家 41p

盲目の芸術家;ミルトン、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ボルヘス、レイ・チャールズ 42p
ブラインド・レモン・ジェファーソン (Blind Lemon Jefferson 1893年9月24日 - 1929年12月19日) は、アメリカ合衆国で1920年代に演奏活動をしたブルース・シンガーである。いわゆる戦前ブルース、カントリー・ブルースの代表格のひとりとして知られる。ライトニン・ホプキンズ、T-ボーン・ウォーカーなど、のちのブルース・アーティストにも大きな影響を与えている。(ウィキ)

ウォール街駅 51p

ファラフェル 52p

トリニティ教会


ブリュッセル旅行 98-99p
飛行機の中で引退した女性外科医に会う
メイヨット博士
エジプトのアンパン一族
ヘリオポリス
エドワール・ルイ・ジョゼフ・アンパン

 この建物は現地では「カスル・アル・バロン」 と呼ばれていて、英語では BARON’S PALACE と訳されています。バロンとは人の名ではなく男爵のことなので、本来はその男爵の名をとって「アンパン宮殿」と呼ぶべきなのでしょうが、カイロの人々は「バロン」を特定の人物をさす固有名詞のように扱ったようです。したがって ここでも「バロン宮殿」と呼ぶことにします。
 その特定の人物とは、ベルギーの実業家の エドワール・ルイ・ジョゼフ・アンパン (1852-1929) で、一代にして銀行、電気、電話、鉄道、都市開発の事業で 国際的に大成功をおさめた人物です(今ならグローバル・マルチ・ベンチャー企業というところ)。パリの地下鉄建設に果たした業績のゆえに、フランス政府から男爵の爵位を贈られたのです。そのアンパン男爵が 1900年頃にエジプトの鉄道や電話網建設のためにカイロを訪れると すっかりこの地域に魅せられ、ナポレオンのあとを継ぐ エジプト愛好家となりました。
 1904年にカイロ北東部の砂漠に 6,000エーカー(2,400ヘクタール)の土地を買うと、ここに新しいカイロとしての近代的な田園都市を計画し、1907年に建設を開始しました。ちょうど インドの デリーに対する ニューデリー(この6年後に建設開始)に相当する地域です。 混沌とした旧市街と対照的に、広い道路を整然と通し、建物をゆったりと配して、「ヘリオポリス」(太陽の都)と名づけました。現在はカイロの一部ですが、20世紀のカイロの都市発展にとって、ヘリオポリス地区は大きな役割を果たしました。 後にその東北端に カイロ国際空港がつくられために、外国からの訪問者は必ずこの地区を通り抜けていくので、ヘリオポリスはカイロの顔となっています。
http://www.kamit.jp/11_information/baron/baron.htm

ゴルダ・メイア( Golda Meir, 1898年5月3日 - 1978年12月8日)は、イスラエルの政治家、第5代首相(在任期間1969年-1974年)であり同国初の女性首相。
サイード
112p
ゴルダ・メイアは、より排外主義的な文章、特にパレスチナに関連する文章も頻繁に使用しています。「パレスチナ人のようなものはない」と彼女は言った。

「パレスチナ国家を持つ独立したパレスチナ人はいついるのか?パレスチナ人は自分をパレスチナ人と考えているパレスチナ人ではないのですか?私たちは来て、彼らを追い出し、彼らから彼らの国を取りました。彼らは存在しない」と、ゴルダ・メイアは、彼女のために存在しないパレスチナの存在について言いました。
https://voi.id/ja/memory/39359/read


ベネディクト・アンダーソン 136p
シャリーア
ポール・ド・マン 137p


マーティン・ムンカッチ 163p
MUNKACSI, Martin (1898-1991)

マーティン・ムンカッチは当時のハンガリー、コーロズヴァル(現在ルーマニア領)生まれ。16歳のときに家を出てブタペストで暮らすようになります。ぺンキ職人の弟子を経て地元の新聞社に就職した青年ムンカッチは詩人を夢見ていたとのこと。1921年頃からスポーツ誌「アズ・エシュト」のためにスポーツ写真を撮り始めます。その後ベルリンに移り、有力グラフ誌「ベルリナー・イルストリヒテ・ツアィトゥンク」 などの仕事を行い、ドラマチックかつ大胆なアングル、構図の写真で名声をかちえます。この時期に、欧州、アフリカ、南米を旅行し、1930年頃にはリベリアで、有名な海に駆け込む地元少年たちを撮影しています。アンリ・カルチェ=ブレッソンはこの作品に感銘を受け、「この写真を見たときに、写真は瞬間を通して永遠に到達できるかもしれないと直感した」と、ムンカッチの娘ジョーンに寄せた手紙で述べています。
1933年ムンカッチはウルシュタイン社の仕事でアメリカに渡ります。ちょうどヴォーグからハーパース・バザーに移籍し雑誌改革に取り組んでいた 編集長カーメル・スノウに起用され、はじめてファッション写真を撮影します。1933年12月号に発表された、アメリカ娘(モデルはルシール・ブロコウ)が服をなびかせながら浜を走るイメージは新時代のファッション写真の第1号となります。 彼はそれまでスタジオで制作されていたファッション写真に、動きのある自然なイメージや野外撮影を取り入れ変革をもたらしたのです。
1934年にはナチス・ドイツの抑圧から逃れてアメリカに移民。 ハーパース・バザー誌と専属契約を結び、同時期に雇われたアート・ディレクターのアレクセイ・ブロドヴィッチとともに斬新なファッション写真を次々と発表していきます。 その後、「レディース・ホーム・ジャーナル」誌などの仕事も行い、30年代、40年代のアメリカで最も高額のギャラを得る写真家といわれるようになります。1943年に心臓発作を起こし、療養期間には著作に専念する生活を送ります。戦後はファッションの移り変わりが速くなり、彼の写真は次第に時代遅れになっていきます。時代はカラー写真が全盛となりますが彼はその変化にも対応できませんでした。その後はフリーで主にコマーシャル関係の仕事を続けますが、1963年に心臓発作で亡くなりました。

彼の写真は上記のアンリ・カルチェ=ブレッソンとともに、幼少時代のリチャード・アベドンにも多大な影響を与えたことで知られています。
写真集は1951年にブロドヴィッチがデザインした写真集"Nude"が、また死後の1979年に"STYLE IN MOTION, Munkacsi Photographs of 20s,30s, And 40s"などが刊行されています。

ヨルバ人(Yoruba)は、アフリカの民族。主にナイジェリア南西部に居住し、西アフリカ最大の民族集団のひとつである。ナイジェリアにおいては、ハウサ人・イボ人とともにナイジェリアの三大民族のひとつとなっている。
168p

農夫ピアズの幻想 190p
W・ラングランド作
《原題The Vision of Piers the Plowman》中世イギリスの宗教詩。ラングランドの作品とされる。50以上の写本が現存し、1370年頃、1380年頃、1385年頃の3種の稿本に大別することができる。

【抜き書き】国王は言った、「[…]しかしながら、〈道理〉よ、お前はここからすぐに立ち去ってしまってはならない。予の生きている限り、お前を手放したくないのだから。」/〈道理〉は答えて、「私はいつまでも陛下のおそばに居るつもりでおります。そこで、〈良心〉をどうぞ陛下の助言者として加えていただきたく、これだけを伏してお願い申し上げます。」/国王は言った、「よろしい、認めよう。彼がしくじることは、神かけて断じてありえない。予がこの世に生きている限り、われわれは協力して生きて行こうではないか。」(第四歌p63-4)

【抜き書き】「彼らみんなを守る城の司令官(城代)は、とりわけ賢明な騎士で、〈良心〉卿と呼ばれ、彼は最初の妻との間に五人の美しい息子をもうけた。??〈よく見よ〉卿、〈よく言え〉卿、上品な〈よく聞け〉卿、非常に力の強い男である〈お前の手でよく働け〉卿、そして〈ゴッドフレイ・よく歩け〉卿で、いずれも有力な貴族である。これらの六名がこの城を守るために配置されている。かの女性を保護するよう、これらの賢い人たちは命令を受けている、〈自然〉が出てくるか、人をやって自らが彼女を守るまでは。」(第十歌p116-7)


【抜き書き】「そのとき、〈善行〉は悪徳を攻め滅ぼす公爵となり、魂を救い出すので、罪はお前の心臓の中に腰をすえ、休息し、根づく力がない。それがつまり神を畏怖することであり、〈善行〉がそうさせるのだ。神を畏れることが善良のはじまりである。ソロモンは真実の物語としてそう言っている。『主を畏れることは知恵の初め。』(詩編 111の10)畏れのために人はより善いことをする。畏れは偉大な主人であるので、そのため人を柔和にし、しゃべり方も穏やかにし、あらゆる種類の学生を学校で勉強するように仕向ける。」(第十歌p119)


ディストピア 215p

ナッツ 216p
nut 変わり者

ラスカー賞 221p
らすかーしょう
Lasker Awards
ラスカー財団の創始者であり慈善家でもあったラスカー夫妻(アルバートAlbert Davis Lasker(1880―1952)とメアリーMary Woodard Lasker(1901―1994))によって1945年に創設された医学賞。基礎医学および臨床医学に貢献した研究者らに与えられるアメリカの権威ある医学賞である。この賞の受賞者のなかからノーベル医学生理学賞の受賞者が出ることも多く「アメリカのノーベル医学生理学賞」ともよばれる。基礎医学研究賞、臨床医学研究賞、公益事業賞および医学特別業績賞の種類がある。
 基礎医学研究賞Albert Lasker Basic Medical Research Awardは、障害や死の原因に関する基礎的な発見をした研究者らを対象とする。日本人では、細胞の遺伝子変異によって癌(がん)が発生することを明らかにした花房秀三郎(はなふさひでさぶろう)(1982)、生体組織を攻撃する抗原に対する抗体発現の仕組みを遺伝子構成段階で解明した利根川進(とねがわすすむ)(1987)、生体内のあらゆる細胞へ分化できるiPS細胞を樹立させた山中伸弥(やまなかしんや)(2009)、生体内の細胞異常の修復機構を解明した森和俊(1958― )(2014)らの受賞者がいる。
 臨床医学研究賞Lasker-DeBakey Clinical Medical Research Awardは、治療法の改善など臨床医学研究に貢献した研究者を対象に与えられる。日本人の受賞者には、心筋梗塞(こうそく)などの予防にかかわる脂質異常症の治療薬として有用なスタチンを発見した遠藤章(1933― )(2008)がいる。
 公益事業賞Lasker-Bloomberg Public Service Awardは、医療や保健にかかわる公益事業に社会的貢献をした者に与えられる。2000年からラスカーの妻メアリーの名を冠していたが、2011年に現名称に改称された。医学特別業績賞Lasker-Koshland Special Achievement Award in Medical Scienceには、生化学研究にとくに業績のあったコシュランドDaniel E. Koshland Jr.(1920―2007)の名が加えられている。

ツィクロンB(独: Zyklon B, 英: Cyclon B)とは、ドイツのシアン化合物系の殺虫剤の商標である。しかし第二次世界大戦中にナチス・ドイツによるホロコーストで、強制収容所のガス室で毒ガスとして用いられたと言われている。現在は農薬としては用いられておらず、その他の使用(シラミ除去など)に対してもユダヤ人団体からの抗議で商用に至っていない。

片仮名転記の際には「チクロンB」と表記される場合もあり、英語読みで「サイクロンB」とも言うが、全て同じ薬剤である。
245p

クロイターズ美術館 252p

パラケルスス(スイスドイツ語:Paracelsus)こと本名:テオフラストゥス・(フォン)・ホーエンハイム(Theophrastus (von) Hohenheim[4][5], 1493年11月10日または12月17日 - 1541年9月24日)は、スイスアインジーデルン(英語版)出身の医師、化学者、錬金術師、神秘思想家。悪魔使いであったという伝承もあるが、根拠はない。後世ではフィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム[6][7](Philippus Aureolus Theophrastus Bombastus von Hohenheim)という長大な名が本名として広まったが、存命中一度も使われていない[4]。バーゼル大学で医学を講じた1年間を例外に、生涯のほとんどを放浪して過ごした[8]。
253p

ガイウス・ムキウス・スカエウォラ(ラテン語: Gaius Mucius Scaevola)は、共和政ローマ初期の伝説的な人物。一説によると元々のコグノーメンはコルドゥス(Cordus)であった[1]。若者らしい勇気を示し、追放されたタルクィニウス・スペルブスの王政復古を目論むエトルリア王ラルス・ポルセンナを退けた。
ローマが王政から共和政に移行したばかりの時代、追放された王タルクィニウスはいまだ健在で、エトルリアの王たちと手を組んでローマへの復帰を企んでいた。タルクィニウスの盟友ポルセンナは軍を率いる事に優れ、ローマ軍はたびたび苦難に陥る。そしてポルセンナはローマを包囲するにまで至った(ローマ包囲戦 (紀元前508年))[2]。

そして、その時に一人のローマ市民ガイウス・ムキウスは闇夜に隠れて城外のポルセンナを暗殺しようと企み、元老院の許可を得た。しかしポルセンナの顔を知らないムキウスは王の隣にいた秘書を殺害してしまい、囚われの身となったムキウスがポルセンナに詰問される。この時のムキウスの台詞は後のローマでは語り草となった。曰く:

私はガイウス・ムキウス、ローマ市民だ。私は敵を殺しにやってきたあなた方の敵である。また敵を殺す覚悟と同様、私には死ぬ覚悟もできている。我々ローマ人は行動を起こすときには勇気をもって攻撃し、傷を受けるのも勇気を持って甘んじるであろう。同じ覚悟を持った若者の列が私の後に続いている。その者たちがいつでもお前の首を狙っているぞ。これはそうした者たちとお前一人の戦いだ。

これを聞いたポルセンナは恐れかつ怒り、ムキウスの身体を火であぶって拷問することとした。ムキウスは従容としてこれを受け入れるどころか、ポルセンナよりも先に松明をつかみ右手に押し当てて、痛みの表情を出さずに炎が右手を焦がすままに耐えたという[3]。

この勇気を目にしてポルセンナは彼を解放し、またこのようなローマ人の勇猛さを前にポルセンナはローマと和議を結んだ。そして焼けただれた右手が使えなくなったため、彼はのちにスカエウォラ(Scaevola、「左手の」という意)と呼ばれるようになったという。
262p


 いつもは隣の席の人間に気を向ける。好奇心を持っても、たいていはがっかりすることになる。
気がつけば世間話を切り上げたくなっていて、互いに抱いていたはずの関心が薄れ、読みかけの本に戻ることになるのだ。ただその旅では、空の同伴者がやってきたとき私は眠っていた。アイマスクを着けていたが、それは離陸して空に浮かぶまでの問だけで、軽食を運ぶカートのガシャガシャという音が近づいてくると私十は目を覚ましてアイマスクをとった。すぐには目を開かなかった。眠りを中断して機内食を食べるべきか、決めかねていたのだ。彼女の声がしたのはそのときだ。年配の女性のゆったりとした声。あなたみたいな方が羨ましい、と彼女は言った。私もどこでだって寝られる人になりたいですよ。
 目を開けると白髪の人がいた。髪の色はとても薄く、まるで髪の実体-単なる色ではなくーが消えかけているようだった。淡い冠の下の顔は幅が狭く皺が寄っていて、顔の皮膚は細かいシミに覆われている。だが口元に意志の強さが感じられ、額は際立ち、目には鋭い光が宿っている。間違いない、人生の長きにわたって見事な美貌を持っていたのだ。私が目を開けると彼女が不意にウインクをしたので驚いたが、笑顔で応えた。彼女は質素な服装をしていた。ベージュ色のウールのセーター、格子柄のズボン、茶色い革のデッキシューズ。小さな真珠のついた二連の指輪をはめ、真珠のイヤリングをしていた。栞の代わりに人差し指を挟んでいた膝の上の本は、『悲しみにある者』だった。私は読んだことがなかったが、それがジョーン・ディディオンの回想録で、夫の突然の死とそれまでの日々を描いた本だということは知っていた。メイヨット博士({時間程経つまで彼女は名乗らなかった)は結婚指輪をしていた。
 僕も普段、騒がしい場所だと眠れませんよ、と私は言った。どこでも眠れる人はいいですよね。
彼女は明るい表情で、ええ、眠りがどうしても必要なときってありますよ、と言った。ところで英語とフランス語だと、どちらが話しやすいですか? 飛行機がロングアイランド上空にいたときにはもうインターコムのアナウンスが三ヶ国語になっていた。私はフランス語が下手だと伝えた。彼女は私の出身地を尋ねた。まあ、ナイジェリアなんですね、と彼女は言った。ナイジェリア、ナイジェリアね。ナイジェリア人の知人が大勢います。実を言うと、傲慢な人ばかりです。私は彼女の話しぶりに好感を持った。繕わない率直な表現、相手が離れていく可能性もある。きっとその年齢になるだいぶ昔に、他人の意見を気にすることをやめたのだろう。もっと若い人がそんなふうに直戴的な物言いをしたら、確実に誤解を生むだろう。けれども彼女の場合、その心配はない。
 それにひきかえガーナ人はとても穏やかで、仕事がしやすいですね、とメイヨット博士は続けた。
彼らは自分たちをそれほど大きなものだと思っていないのです。なるほど、多分その通りでしょう、と私は言った。僕たちは少し強引です、でもそれは、前に出るのが、つまり存在感を示すのが好きだからだと思います。自分たちのことをアフリカの日本人だと思ってるんです、テクノロジーは得意じゃないけど。彼女は笑った。そして本を脇へ置いた。夕食を運ぶカートが来ると、私たちはメニューを見て魚料理-電子レンジで解凍したサーモン、ポテト、乾燥したパンーを選び、黙々と食べた。それから私は彼女に職業を尋ねた。外科医です、と彼女は言った。一線からは退きましたが、それまでの四十五年はフィラデルフィアで胃腸科にいました。私が研修医であることを伝えると、彼女はある精神科医の名前を言った。彼はあなたと同じ病院にいたことがあります。多分もういないでしょうけど。大昔の話ですよ。ハーレム病院に勤めたことは? 私は首を振り、これまでは別の州のメディカルスクールに通っていたと言った。ちょっと聞いてみただけです、最近そこで診察することがあったから。引退はしましたが、ボランティアをしたくてハーレムに行ったんです。さっき私、少し不公平でしたね、と彼女は付け足した。ナイジェリア人の研修医は素晴らしい
(94-95p.)

 ブリュッセルは誤解を受けやすい。人はブリュッセルを官僚の街だと考える。欧州連合の中心地であるため、官僚の街にするべく造られた、あるいは少なくともそのために拡張された新しい都市なのだと決めてかかる。ブリュッセルは古くi石材が醸し出すヨーロッパ特有の古さだ  、通りや街並みの大部分が蒼然としている。家屋や橋や大聖堂は、低地の農地や森に訪れた戦争の恐怖を免れたが、低地の農地や森もまた、数え切れない戦闘を耐えてきたのだった。歴史上稀に見る程の猛烈な殺戮と破壊がソンム河畔とイーペルの街で行われた。それ以前となるとワーテルローの近郊だ。
 それらは劇場であり、オランダ、ドイツ、イギリス、フランスがまさに交差する地点で、ヨーロッパの運命を決める死闘が演じられた。しかしブリュッへもヘントもブリュッセルも爆撃を受けなかった。言うまでもなく、降伏し、侵略してきた軍と交渉したことで街は生き残ったのだ。仮にもし、ブリュッセルの統治者が無防備都市を宣言せず、そして第二次大戦中に街を砲撃から護らなかったとしたら、ブリュッセルは破壊され瓦礫と化していたかもしれない。第二のドレスデンになっていたかもしれない。しかし街には中世とバロックの風景が今も残っているのだった。十九世紀末にレオポルドニ世が建てた巨大な建築物が点在する眺めが。
 私が滞在しているあいだ、穏やかな冬空と古い石材が街全体に憂鯵な包囲網を敷いていた。ある意味そこは眠れる街、陰気なトラムとバスが走る、ガラスの中の街のようだった。太陽が輝く国からついさっき到着したかのような人々が、ヨーロッパの他の都市よりも大勢いた。目の周りに黒い網模様を描き、頭に黒い布を巻いた老女たちがいたし、同じように布を被った若い女性もいる。保守的な格好をしたイスラム教徒がよく目に入った。ただ、私にはそんな状況になっている理由がよくわからなかった。ベルギーには北アフリカの国々を植民地化した過去はない。しかしその光景こそがヨーロッパの現実であり、国境はあってないようなものなのだ。街に心理的な圧力がはっきりとあった。
 メイケンが「四パーセントがアラブやアフリカからの移民」という言い方で嫌味を言ったのは確かだが、私が目にした数からすれば「四パーセント」は控えめな数字なのかもしれない。街の中心部でさえ、いやむしろ中心部に、アフリカのコンゴかマグリブから来たと思しき人々が大勢いたし、私もすぐに気づいたが、トラムでは白人の割合がかなり少ない。しかしこのこととは別に、私はブリュッセルに到着した数日後にメトロで重い雰囲気の人々に遭遇してもいた。彼らは人種差別と暴力に抗議するために、だがとりわけその年の四月に起きた殺人事件に抗議するために、〈アトミウム〉で行われる集会へ向かっているところだった。ブリュッセル中央駅で、MP3プレイヤーを奪われそうになった十七歳の少年が、二人組の若者に抵抗して刺し殺される事件があった。それはラッシュアワーの混雑したプラットフォームで、大勢の通勤客の前で起こった。誰一人その少年を助けなかった事実は事件後に議論の的となった。殺された少年はフラマン人。犯人たちは報道ではアラブ人だと言われた。人種的な反発を恐れた首相は人々に冷静を訴え、街の司教は瀕死の少年に手を差し伸べないほど無関心な社会を日曜の説教で嘆いた。皆さんは、あの日の四時三十分頃どちらにいましたか? 司教は聖ミカエル大聖堂の礼拝に集った群衆に向かってそう言った。
 司教が悲しみを表明したことは、フラマン人の極右政党、ブラームス・ペランフ党とその支持者からの強い反発を生んだ。著名なコラムニストたちは沈痛な論調で記事を書き、逆差別だと不満を述べた。彼らは言う、被害者が非難されている、問題とすべきは無関心な通勤客ではなく、犯罪を
(104-105p.)

訳者あとがき

 本書『オープン・シティ』は、マンハッタンを主な舞台とした「遊歩者」の小説である。セントラル・パークの北西、コロンビア大学に程近いモーニングサイド・ハイツという地区に住む若き精神科医のジュリアスは、二〇〇六年秋から黄昏時にマンハッタンを散歩するようになる。街のあちこちに赴いては、何かを目にしたり、何かを記憶の底から呼び覚ましたりする。公園、デモ、地下鉄、残虐行為、音楽、鯨、記念碑、パラシュート、精神疾患、自由の女神。語り手の視線と意識は、こうした様々なモチーフの問を次から次へと、しかしゆっくりと移動し続ける。そして、街の情景、歴史への考察、語り手の心象風景が、静かに展開されていく。
 作者テジュ・コールは二〇〇六年から二〇〇七年頃にマンハッタンをよく散歩したそうだ。そのときに見たり感じたりしたことを元に、広範な知識と詩的イメージを動員し、濃密な文体で書き上げたのが本書である。この初めての長篇は高く評価され、テジュ・コールはアメリカ国内はもとより国外でも現代の重要作家の一人とみなされることになった。
本事日ではニューヨークだけでなく、ブリュッセルや、ジュリアスの母国ナイジェリアといったアメリカの外の世界も描かれる。登場する人びとも様々だ。ジュリアスは、殴衛館の警備員、靴磨き屋、郵便局員など数多くの移民に出会い、彼らの物語に呼を傾ける日.不法滞在者勾留施設で面会した若者サイドゥーにはリベリアからアメリカへの旅路の一部始終を聞き、ブリュッセルのモロッコ人ファルークからは夢を抱いてヨーロッパに渡ったが挫折を味わっているという告白を受ける。ほかにも、ジュリアスの恩師であり第二次大戦中に収容所に入れられた日系人のサイトウ教授や、大学に勤務するジャズ好きの友人といった、多民族の都市に生きる人間たちが自分の孤独を語る。まるでドキュメンタリーのように、人々の生身の声が聞こえてくる。
 ブリュッセルの場面では人種間の緊張も描かれている。本書を翻訳している最中、ヘイトスピーチやテロのニュースを見るたびに、自分が訳している小説は文字通り現実と地続きにあるのだ、という奇妙な気分に襲われた。この小説のブリュッセルはまさしく、人を人種差別に向かわせる空気が遍在しテロが頻発する不穏な現代そのものだと思わずにはいられなかった。
 第四章でジュリアスは、ワールド・トレード・センターがあった一画をパリンプセストに喩える。パリンプセストとは、書かれていた文字を消して別の文字を書き写した羊皮紙の写本のことだ。この喩えは、かつて存在していたものを今に伝える「空間の記憶」を暗示しているとも言えそうだ。
 ジュリアスは通りを歩くことで、街の歴史の深みを、つまりアメリカ先住民の歴史、植民地の歴史、黒人奴隷の歴史や、ブリュッセルの人種差別と戦火の歴史を、のぞきこむ。だが同時に彼自身の歴史を振り返ってもいるのだ。ナイジェリア人の父と、ドイツ人の祖母と母を持ち、ナイジェリアを後にしてニューヨークで暮らす自分自身の歴史を。ジュリアスにとって散歩は、さながら二種類の歴史の交点を彷裡する行為だとでも言うように。また、過去への眼差しは、すでにこの世から消えた人々ー虐殺された先住民、黒人奴隷、「9・11」の犠牲者ーを幻視し、弔おうと試みているようにも思われる。終章に登場するマーラーの交響曲は、そのことを象徴しているようだ。
 書名の「オープン・シティ」には、ふたつの意味があるという。「開かれている」「オープン・マインド」というような意味合いがひとつ。もうぴとつは「無防備都市」。戦争において、軍事力を持たないと「宣言」することで侵略軍に降伏し破壊を免れた都市という意味である(「無防備都市」と宣言したところで精神的な破壊は人知れず行われる、とコールはインタビューで語っている)。
 それでは、テジュ・コールのことを紹介しておこう。一九七五年にアメリカのミシガン州カラマズーに生まれ、すぐに両親の母国ナイジェリアのラゴスに移住する。高校卒業後にアメリカに戻り、西ミシガン大学に一年在籍したのち、カラマズー・カレッジに移って美術と美術史を学ぶ。
そしてミシガン大学のメディカル・スクールに進むも医学は自分に向いていないと気がついて退学し、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院で美術史の修士号を取得。再びアメリカに戻り、コロンビア大学大学院博士課程で北方ルネッサンスを中心に美術史を研究する。『オープン・シティ』を執筆・したのは博士課程にいたときだという。現在はブルックリンに住み、創作活動のかたわら、バード・カレッジで文学、創作、美術史を教えている。
 二〇一一年に発表した『オープン・シティ』は、PEN/ヘミングウェイ賞、米国芸術文学アカデミーのローゼンタール賞などを受賞したほか、全米批評家協会賞をはじめとするいくつかの文学賞の候補になった。また、二〇一三年にドイツ語版が国際文学賞を受賞した。
 その後、ナイジェリアのキャッサバ・リパブリック社から二〇〇七年に出版していた中篇Every Day Is for the Thiefを、二〇一四年にアメリカのランダムハウス社から出版した。二〇一五年
にはイェール大学が主催するウィンダム・キャンベル賞(小説部門)を作家としての活動に対し
て贈られている。二〇〇四年に発表した短篇「シルバーベルク変奏曲」は木原善彦さんの訳で
『波』(二〇一五年六月号)に掲載されている。
 コールは小説家としてだけでなく、写真の世界でも活躍している。写真家としてこれまでにアメリカ内外で作品を発表してきた。この六月には写真と文章を組み合わせたBlind Spotを出版し、それに合わせてニューヨークで展示会が開かれる。毎日のようにインスタグラム(_tejucole)にアップしている写真もおもしろいので、ぜひご覧いただきたい。
 自ら撮影するだけでなく、「ニューヨーク.タイムズ.マガジン」でOn Photographyというコラムを連載している。この連載分にくわえ、「ニューヨーカー」誌など様々な媒体に発表してきた写真.文学.政治に関するエッセイをまとめたさミ鳶§賊蜜ミミき"ミ(二〇一六年)は、ノンフィクションながら前二作と同様に非常に高い評価を受けた(ちなみに、コールは日本の写真家では川内倫子がお気に入りだということだ)。
 またかつてはツイッターで、ナイジェリアの新聞記事と、百年前のニューヨークの新聞記事を使ったSmall Fatesという実験的なプロジェクトも行っていた。
 作家として、写真家として、美術史家としてコールは幅広く活躍しているわけだが、敬愛する作家としてはマイケル・オンダーチェ、W・G・ゼーバルト、V・S・ナイポール、ジョン・バージャー、J・M・クッツェー、ヴァージニア・ウルフらの名前を挙げている(『オープン・シティ』はW・G・ゼーバルトの小説からの影響をよく指摘されている)。詩に対しても強い愛情を持っており、エッセイ集の題名さミ誌§販留ミミ§"鑛は、アイルランドの詩人シェーマス.ヒー二ーの詩からの引用である。.
 私がこの作品に出会ったのは、イギリスのノリッジにあるイースト・アングリア大学大学院に留学していたときだった。本屋の店員にお勧めの本はどれかと聞いて、何冊か挙げてもらったうちの一冊が『オープン・シティ』だった。ゼーバルトの小説に似ているよ、と店員に言われ、買うことにした。私自身ゼーバルトのファンであり、留学先が彼が生前教えていた大学でもあったので、不思議な縁を感じたのだ。そのときは知らなかったのだが、コールはその時期にノリッジの文芸フェスに参加するために町に滞在していて、ゼーバルトの墓も訪れたという。たまたま私も同じ月に墓参をしていた。
 ノリッジという自分にとって大切な町で出会った素晴らしい小説を、こうして翻訳することができて、とても嬉しく思っている。
 本書を訳し始めてからニューヨークを訪れ、作中に登場する場所をペーパーバック版を手に実際に歩いてみた。そのときに初めてコールに会い、後半に登場するチャイナタウン周辺を二人で歩いたことは、訳者としてはとても幸せな体験だった。
 翻訳にあたっては多くの方から助言をいただいた。とくにポリー・バートンさん、モーガン・ジャイルズさん、満谷マーガレットさん、坪野圭介さん、永田医さん、岩坂未佳さんにお礼を言いたい。ノリッジで出会ったみなさんと、書店員のブリュンヒルデさんにも感謝したい。訳者の質問にこころよく答えてくれたテジュ・コールにもお礼を申し上げる。
 そしてなにより、本書に対する私の思いを汲み、翻訳する機会を与えてくださった新潮社編集部の佐々木一彦さんには、感謝の念が尽きない。佐々木さんには最初から最後まで丁寧にサポートしていただいた。

 二〇一七年六月 東京           小磯洋光




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