きょうこの頃



2021年4月3日(土)

 久しぶりに庭にロッキングチェアを出して、パイプに火をつけ、読書。
 やっと読み終える。

 http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2021/03/post-9eee46.html参照


天皇の逝く国で

「哀のパラドックス」(詩) 宋秋月

プロローグ

Ⅰ 沖縄

Ⅱ 山口

大国隆正
幕末・明治維新期の国学者・神道家。
津和野藩士今井秀馨の子として江戸桜田江戸藩邸に生まれた。

靖国神社―1869-1945-1985- (岩波ブックレット (No.57)) (日本語) 単行本 1986/3/20
村上 重良
(むらかみ しげよし、1928年10月10日 - 1991年2月11日)は、日本の宗教学者

憲法20条と聖書・コリント信徒への手紙Ⅰ、10章13節

第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙 第一 10章13節)

『コリントの信徒への手紙一』は『新約聖書』に収められた書簡の一つ。使徒パウロと協力者ソステネからコリントの教会の共同体へと宛てられた手紙である。


肉弾三銃士
3人の内の一人または全員が被差別部落出身者であるという噂



Ⅲ 長崎

昭和63年末から続いた昭和天皇の危篤状態からはじまった「自粛」ムード
戦後はじめての国を挙げての「自粛」だった

本島等 長崎市長
天皇、戦争責任発言が物議を醸す
1988年12月7日
68歳
右翼からの殺人予告

径書房『長崎市長への七三○○通の手紙―天皇の戦争責任をめぐって 』 1989/9/1

松代大本営
象山地下壕(ぞうざんちかごう)
ダイナマイトの発破の後の危険な採掘には朝鮮人、日本人で沖縄の方、日本人の順番で当たらしたとの元現場監督の証言がある。



エピローグ


後記 ジャパンバッシングについて


日本語版へのあとがき


あれから二十年余 増補版へのあとがき

浦部頼子さん
上関原子力発電所(かみのせきげんしりょくはつでんしょ)は、中国電力が、瀬戸内海に面する山口県熊毛郡上関町大字長島に建設計画中の原子力発電所である。長島西端の田ノ浦の山林を切り開いて14万平方メートルの海面を埋め立て、改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)2基の建設が計画されている。稼働後に発電される電力は、50万ボルト送電線で同県周南市まで引かれ、既存の高圧線を経て主に広島・関西方面に供給されるものと見られている。2011年に発生した東日本大震災以降工事が中断しているが、2016年以降は工事着手に向けた準備作業が続けられている状況にある。

上関原発のことは知らなかったか、忘れていた。



 撤回、謝罪、辞任の要求に直面して、市長は動じなかったばかりか、さらに補足して考えをのべて、国民をおどろかせた。
私は天皇一人に戦争責任があるとはいっていない。責任ある人はたくさんいるし、私自身にもあると思う。
しかし今の政治情勢は異常な感じがする。天皇について発言すると何か感情的になる。言論の自由というのは、時や所によって制限されるものではない。……私自身の四十二年あまり勉強してきたことの結果がまちがっているとは思わない。「それでも地球は回っている」。天皇を象徴として尊敬もし敬愛もしているが、それでも戦争については責任がある( )。
異端審問での自説撤回後にガリレオが言ったとされる言葉を借用したのは、いかにもおおげさに思えるかもしれないが、これは日本ではおなじみの引用句で、ここでの用法は長崎の緊迫した雰囲気を測る目安となる。
 一二月一二日、右翼六二団体が、八五台の車をつらねて市へ乗りこんできた。市長は市民に訴えた。
今回の私の発言で、この年の瀬の多忙な時に交通渋滞、騒音、恐怖などを引き起し、市民生活に多大な影響を与えましたが、言論の自由は守らなければならない重要なものであると思いますので、市民皆様の深いご理解をお願いします(  )。
文の前半と後半のあいだに、謝罪の言葉がくると予期されるのに、それがないところがまさに雄弁に多くを語っている。それが示唆しているのは、市長が明らかに事前の準備なしに口にした最初の発言が、戦後の生活の振りまく誘惑にもかかわらず、彼がけっしてうやむやにしようとしなかった過去についての不断の省察から出ているということだ。それでも、事件の偶発性、問題の発言の不可避とは言いがたい性格を、見失わないようにする必要がある。長崎市の首長として彼は十年にわたって平和宣言を毎年八月に出してきたが、一度としてそこで戦争における天皇の役割に触れたことはなかった。
久しく信じてきたこと、私人としては断言してきたことを彼に言わせたのは、刻(とき)の力だった。彼の批判者の言い分とは逆に、タイミングはまさに適切だったのだ。批判的な疑問がたんに礼儀に反するかどうかの問題になってしまうような、タブーに縛られた陳腐さが、言ってはならないことを口にした発言によってまさしく打ち砕かれたのである。
 生きている者たちの心を鎮めるため、いやむしろ麻酔をかけるために、マスコミがせっせと死者をほめそやしているあいだも、市長は彼らの描く新しい君主像を受けいれるのを、辛抱つよく、穏やかに拒んだ。結局のところ天皇は「人形だったわけではない」、いつでも報告を受けていた、と彼は言う。もし「本当に平和主義者だったのなら、〔大臣たちに〕もういっぺん考え直して来い、とか、もういっぺん内閣を作り直して、でもいいでしょうし、やりようはあったのじゃないでしょうか。心弱い平和主義者なら、何の役にも立たないじゃないか、と手紙で書いて来る人もいます。」いかにも彼らしいのは、自分の確信は歴史の本によっているだけではない、と付け加えていることだ。彼は、自分があの戦争を生きた時点、部下に死ねと教育し、自分もまた永久に罪を負わねばならなくなった時点に、執拗に立ち帰ってゆく。そして天皇の側もそれを理解していたはずだと言う。
天皇は新聞も読むし、ラジオも聴くし、そのこと〔臣民が天皇陛下のためにと死んでいったこと〕は十分に知っていたと思うんです。「皇軍」だったんですから。要するに当時は、天皇陛下もわれわれも、十分、意が通じて、直接話はしないけれども、そうして戦争をやったわけですよ。誰が考えても、「天皇陛下のために死ぬ」という国民の気持ちが、天皇には十分わかっていたわけですよ。
市長はアメリカのかわりに天皇を責めることで、日本の受難の配役替えをしているわけではない。近年では折りあるごとに、日本のアジア侵略とその帰結に言及してきた。
朝鮮から強制的に連れて来た人と、その子孫の二世・三世、一昨年の調査ではたしか六七万人ですか、在日の朝鮮・韓国の人たち。育ちも教育も何一つ日本人と変わらないのに、公務員にもしなければ、学校の先生にもしない。警察官にもしない、参政権も与えない、 一流企業も雇わないっていう、そういうものが日本人。
あの侵略の歴史とかずかずの残虐行為について反省することは日本人みんなの義務だと、彼は言う。たしかにヨーロッパ諸国が先にやっていた植民地政策を、あとから日本も真似たという面はある。一〇〇年前は、そういう戦争でしたものね。しかし、だから仕方なかった、と受け取るという考えはよくないと思います。
 天皇の死から葬儀までの六、七週間、「自粛」は最高潮を迎えた。ことはもはや成り行き任せに、つまり突出して注目を惹くのをいやがるおおかたの日本人の性向に任せておくわけにはいかなかった。
文部省は各県教育委員会に通達を出して、学校長は生徒に服喪の意味を理解させ、とくに黙祷を捧げるよう指導すべし、と指示した。ヒロヒトが死んだのは一月七日の土曜日、つぎの月曜日が学校の冬休み明けだった。その日の晩のニュースは各地の学校をつぎつぎと映して、子どもたちが黙然とこうべを垂れている場面、つぎには新しい元号の漢字を練習する場面を流した。こうして国民に、悲しみのさなかにあっても、いかに一致調和した移行がすすんでいるかが示されたのだ。完全な画一性があったと言うつもりはないーそれとはほど遠くて、少なくとも、官僚的であると同時に神秘的に、現代的であると同時に古代ふうに死を提示する校長の技量の点では多様だった。語彙だけをとってみても、おどろくほどものものしかった。それにつづく一か月はおおかたの大人も、葬儀を「大喪の礼」と呼ぶたぐいの新語や、天皇の死にともなう複雑な儀式や手続きのために導入された読み方も知らな
(224~227頁)

異国情緒の魅力のいくばくかは、キリスト教に好意的な政策が十七世紀初期に苛酷な弾圧へと転じてしまってからの、暗い受難の影から来てもいる。長崎では、転ぶことも殉教の道を選ぶこともしなかった多くの者が、人目を避けて信仰を守り、子々孫々に伝えて、独特なかたちのキリスト教を生みだしてきた。彼らは「隠れキリシタン」と呼ばれ、本島市長もそういう信者の家族の出である。もう一つ特記すべきことは、市長が被爆四十周年にさいして指摘したように、部落民がひとの望まぬ不毛の土地へ追いやられて、キリシタンをスパイする任務を与えられたことである。こうして少数派は共同戦線を組むのを妨げられた。これで見ても、市長は差別と軍国主義の問題が連動していることをしっかり見抜いていることがわかる。彼の一九八八年の発言は、ますます偶然とは思えなくなってくる。
 本島等は、会ってみると小柄な人だった。すり足ぎみの歩き方と、感じのよい朴訥な口調。彼は会話をまず『レ・マンダラン』への言及ではじめたーあの箇所をご存じでしょう、サルトルとボーヴォワールとおぼしき二人が、原爆のことをちょうど知ったばかりの場面を。新聞の大見出しには勝利の叫びが躍っている。けれどボーヴォワールの作中人物たちは死者の数に藻然とする。「相手がドイツの都会だったら、白人種だったら、やっただろうか。でも黄色人種だ! 彼らは黄色人種を憎んでいるんだ!」私はこのとき市長に話せたらよかったのにと思うのだが、その後にアフリカ系アメリカ人の友人から似たようなことを聞いた。その友だちが仲間といっしょに、ニューヨークの地下鉄のなかで原爆の大見出しを見たとき、.彼女たちもやはりそういう反応をしたという。私は市長が、どんな政治的立場なのか彼には知るよしもない戦後世代のアメリカ人を相手に、原爆を話題にする糸口として『レ・マンダラン』を選んだ、そのきわだった明敏さに感じ入る。彼がほかの文脈でも、たとえば日本の侵略を強調したいとき、「世界には、原爆のことを聞いて手をたたいてよろこんだ人びともいた」ことを聴衆に想起させているのを、私は知っている。
 彼が手始めにもちだしたもう一つの話題は、宇野首相の女性スキャンダルだった。これについて日本の女たちはなにをいちばん不愉快に感じていると思うか、と訊く。私がいくつもの文節を組み立てはじめると、彼は途中でさえぎって、一〇語かそこらで要点を衝くのに慣れた男の口調で言う。「金ですよ。宇野が払わなかったら、ほかの相手にもね、女の人たちはあんなに怒らんでしょう。」一般的に見て、女性問題は自由民主党にとってのきびしい試金石だと、彼は確信している。ひと月まえ、ある女性議員から質問があったとき、市の美人コンテストは女を年齢や結婚をもとに差別することで貶めているという意見に、市長は同意を表明したのだった。
 彼は私たち  私と助手の二人1を執務室に招じ入れる。サイド・テーブルにもまわりの床にも、いま彼が読んでいるものがうずたかく積まれている。多くは、天皇制に関する本だ。最近は死についての本に凝っていたのに、こんなものばかり読まなくてはならないと、彼がこぼしているのを記事で読んだことがある。ようやく私は手近な話題をきりだせる。
つい最近の容疑者逮捕にふれて、これで解放された気分になられましたか、と質問する。
もう、うんざりですよ。人間はね、子どものとき勉強するのは、大人になってなすべきことがわかるようになるためでしょ。ぼくがいま勉強しなきゃならんのは、死ぬことの勉強なんです。
いつごろから死に関心を?
ずうっと。
ずうっと?
ぼくは一九二二年生れだ、考えなきゃならん歳ですよ。
彼は読んでいる本の著者の名を早口にならべて、そのうちの一人については、プロテスタントだと注釈する。なんでも記憶してしまう小学生のころからの習慣のおかげで、彼の頭には、興味のあるテーマを扱っている無数の本の一覧表ばかりか、何千行の詩句、中国王朝の名、それにもちろん聖書の章句も、いっぱいに詰まっているらしい。
アメリカ医学はこの方面ではずいぶんすすんでいるそうですね。最終的にはこれが医学の問題ーまあ、医学のとは言えないかもしれんが、二十一世紀にとっての問題じゃないですか、人間が希望をもって死ねるかどうかが。
希望って、どういう意味で?

(290~293頁)

核兵器の製造・保有・持ち込みを許さないという非核三原則が三ではなく二・五原則だと、たしかおっしゃったことがありますね。その○・五というのは? 核兵器の持ち込み拒否の原則が、嘘だとばれたからですか?
そう、そう。
一九八一年、元合衆国大使エドウィン・ライシャワーは、日本領海内でのアメリカ艦船の核兵器搭載について、十八年まえに当時の大平外相と話し合ったことに公けの場で言及し、大騒ぎを惹きおこした。日米安全保障条約の規定によると、合衆国政府は核兵器を日本の領域内に持ち込む場合には、日本政府と事前に「協議」することになっているが、これまでいちども協議はおこなわれなかったため、日本政府は、核兵器は持ち込まれていないとつねに主張してきた。合衆国は日本に寄港する艦船の核兵器搭載の有無について、肯定も否定もしないという公式方針をとっている。一九六五年に沖縄近海で、アメリヵ航空母艦ティコンデロガ号のデッキから水爆搭載…機が転落し水没するという事故があったことが、一九八九年六月になって暴露されたにもかかわらず、この公式方針はいまも堅持されている。
 長崎市議会の保守系議員たちは、市の「平和憲章」の採択に長いあいだ抵抗してきた。それがようやく議会を通過したのは一九八九年三月  そのころにはすでに全国で、=二五〇以上の自治体が非核都市宣言をしている。この遅れは、長崎市を特徴づけている皮肉な現実のもう一つの表れだ。原爆被災地でありながら、兵器産業を抱えている、いやむしろそれに寄生しているという皮肉。非核三原則のような、法律としての地位をもたない象徴的な措置ですら、執拗な抵抗に出合うということは、なかなか多くを語っている。それに私が市長に会う直前の七月半ばには、新しい憲章の意義を説く掲示板を市内七七箇所に設置するための予算が、市議会に拒まれた。数は結局、三つに減らされたのであrる。
 市長は、いま書いている平和宣言草稿の数節を私に読みあげてくれる。多くの日本市民が核兵器は日本に持ち込まれていると思っていることに言及して、彼は問う。「日本政府は、核兵器を積んでいるとわかった米艦の入港を拒否すれば、日米同盟関係は機能しなくなると恐れているのであろうか?」 
(314~315頁)




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