きょうこの頃



2020年11月23日(月)

 http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2020/11/post-c1186c.html参照

 きょうは勤労感謝の日。

 作者は小田嶋隆と小中高と同級生。
 男性である。

はじめに

「反知性主義」という言葉が日本でも聞かれるようになったのは、ごく最近のことである。それまでは、アメリカ史を研究する一部の専門家たちの間で、特に二〇世紀以降の現代アメリカ社会を分析するために使われてきた用語だったが、近年では日本の時評や論壇にも頻繁に登場するようになった。
 ただ、その使われ方には微妙な違いがあるように見える。日本では、「反知性主義が日本社会を覆い尽くしている」と言うように、どちらかと言うと社会の病理をあらわすネガティヴな意味に使われることが多い。たとえば、最近の若者は本を読まなくなったとか、テレビの低俗な娯楽番組で国民の頭脳が毒されているとか、大学はレジャーランド化して単なる就職予備校に成り下がったとか、あるいはそれもこれもみな、国民を無知蒙昧の状態にとどめておく「愚民政策」の陰謀だ、などという人まである。これらの文脈では、「反知性主義」とは「反・知性」、つまりおよそ知性的なことに何でも反対する、という意味だろう。たしかに、そういう局面で「反知性主」が感知されることも大いにある。
 もう少しきな臭いところでは、隣国との領土問題や歴史認識をめぐって再燃するようになった日本の声高なナショナリズムなどを指して、「反知性主義」という言葉が用いられることがある。
元外務省主任分析官で作家の佐藤優は、反知性主義のことを「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」と定義している。政権中枢にいる日本の政治家が、ナチズムを肯定するかのような発言をし、その深刻さを自覚できないでいる、というのはその典型的な症状だろう。ここには、知性による客観的な検証や公共の場における対話を拒否する独りよがりな態度が見える。他方、教育社会学者の竹内洋は、社会の大衆化が進み、人びとの感情を煽るような言動で票を集めるような政治家があらわれたことに、反知性主義の高まりを見ている。こうした政治家は、メディアに登場して「本ばかり読んでいるような学者」の学問や知性を軽蔑した発言をすると、一部の有権者が喝采を送ってくれるのを知っているのである。民主主義社会では、政治が扇動家やポピュリズムに乗っ取られる危険性は常に伏在している。
 反知性主義には、以上のような要素ももちろん含まれている。しかしこの言葉は、単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味を含んでいる。というより、ここまでその使用法が広がってしまった今ではとても信じられないことかもしれないが、本来「反知性主義」は、知性そのものでなくそれに付随する「何か」への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである。時代によりそれぞれの論者が自分なりの意味づけで一つの言葉を用いることは当然あってよいのだが、その言葉の歴史的な由来や系譜を訪ねて意味の広がりと深まりを知るならば、もっと有意義で愉しい議論が期待できるだろう。本書はそのような探訪の旅を読者に味わっていただきたいと願っている。
「反知性主義」(anti-intellectualism)という言葉には、特定の名付け親がある。それは、『アメリカの反知性主義』を著したリチャード・ホフスタッターである。一九六三年に出版されたこの本は、マッカーシズムの嵐が吹き荒れたアメリカの知的伝統を表と裏の両面から辿ったもので、ただちに大好評を博して翌年のピュリッツァー賞を受賞した。日本語訳がみすず書房から出たのは四〇年後の二〇〇三年であるが、今日でもその面白さは失われていない。訳者の田村哲夫が「あとがき」に記しているとおり、「説得的な歴史観の下で、正確な叙述で表わされた歴史書は、どんな時代にも古くささを感じさせるものではないし、どんな時代にも有益なヒントをあたえてくれる」ものである(   )。
 だが、もしそんなに名著であるのなら、これが四〇年も訳出されずに放っておかれたのはなぜだろう、という問いも湧いてくる。理由の一端は、この本の内容が日本人には理解しにくいアメリカのキリスト教史を背景としているところにある。この本に言及する人もあるにはあるが、よく見てみると、引用されているのは冒頭の数頁だけで、内容的な議論の深みへと足を踏み入れる人は少ない。けっして難しい本ではないが、日本人になじみの薄い予備知識が必要なため、本筋のところが敬遠されてしまうのである。その先に続く議論の面白さを考えると、これは実にもったいない話である。アメリカの反知性主義の歴史を辿ることは、すなわちアメリカのキリスト教史を辿ることに他ならない。

(3〜5頁)

 これもあまり知られていないことだが、ハーバードは私立でなく公立として設立された大学である。設立時には植民地議会が四百ポンドの公金を拠出するという議決を行っており、出発点においては行政的にも財政的にも公立大学であった。にもかかわらず、議会でも一般社会でも、牧師になる卒業生が少ないことに文句を言う人はいなかった。
 その後の公式文書でも、「神学」の学位には何も触れられていない。一六五〇年の認可状を見ると、大学設置の目的は「あらゆる優れた文芸、学芸と学問の前進のため」と記されているだけである。大学の設置や学位の授与は、中世以来の重要な法的権利だが、ハーバードが学位授与権について明確な規定をもったのは、ようやくー七世紀末のことである。ところが、そこに書いてあるのも、「学識と教養」(Learning and Good Manners)すなわちリベラルアーツの学位だけで、「神学」には何も触れられていない。

(39頁)

 「ハーバード」という大学名は、公立大学として設立された時の議決には記されていない。これは、その後同大学に多額の遺産を寄付したジョン・ハーバード(一六〇七ー一六一二八)を記念してつけられたものである。ジョン・ハーバードは、イギリスに生まれ、ケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジを卒業して牧師となった。同カレッジは、ピューリタン学生を受け入れる数少ない大学だったため、ニューイングランドには彼の他にも多くのエマニュエル・カレッジ出身者がいる。彼も修士号を取得して一六三七年にニューイングランドへ移住するが、翌三八年には結核で死の床に就いてしまう。その遺言で、三二〇冊にも及ぶ自分の蔵書と遺産の半分である七八○ポンドを大学に寄付したのである。これは、二年前に植民地議会が拠出を決めた四〇〇ポンドのほぼ倍にあたる金額だった。
 現在のハーバード・ヤードには彼の銅像があるが、銅像のモデルは一九世紀の一学生である。一七世紀の人間で面影を知られている人は少なく、まして早世したハーバードのことだから、その風貌や人となりはまったく不明である。この銅像の作者は、後にワシントンDCにあるリンカン記念堂の座像も制作することになるが、どうりでハーバードとリンカンの二人は、何となく似たような雰囲気で座っている。銅像の左足の先は、訪れる人に撫でられて光っているが、これはそこを撫でると幸運を手に入れることができる、というジンクスがあるからである。
 一八世紀に入ると、ハーバードが教理的に弛緩し、不健全な自由思想で堕落した、と批判する人が増え、それに対抗するかたちでイェール大学が創立される。だが、そのイェールも、英国教会の害毒に汚染されて堕落したと言われ、半世紀後にプリンストン大学が創立される。いずれの大学も、同じように牧師養成と一般教育という二つの目的を矛盾なく受け止めていた。
 アメリカでは、その後も修士の学位を出す教育機関は多くなかった。そのため、一九世紀から二〇世紀にかけて、諸大学で教える教授や学長の多くが神学校出身者で占められた。この意味で、神学校は「アメリカ諸大学の母」とも呼ばれている。
 なお、独立革命前には、ハーバード、イェール、プリンストンの他に、ヴァジニアのウィリアム&メアリ大学、ニューヨークのコロンビア大学、フィラデルフィアのペンシルヴェニア大学、ロードアイランドのブラウン大学、ニューハンプシャーのダートマス大学、そしてニュージャージーのラトガース大学が創設されている。このうち、ベンジャミン・フランクリンが創設したペンシルヴェニア大学を例外として、現在は州立となっているラトガース大学を含め、いずれも会衆派や英国教会など特定の教派を背景として創立され、牧師養成と一般教養教育の両方を提供していた。
 いわゆる「アイヴィー・リーグ」と呼ばれるのは、このうちウィリアム&メアリ大学とラトガース大学を除き、ずっと遅れて南北戦争後にニューヨーク州からの土地供与により建てられたコーネル大学を加えた、東部の八私立大学のことである。いずれもそれぞれ特徴をもった名門大学である。他にも一九世紀にはスタンフォードやヴァンダービルトなどの私立名門大学が設立されるが、それらは後で反知性主義の歴史に登場することになる。
(45〜47頁)

 それを解く鍵は、「キリスト・イエスにあって」や「神の前に」などという言葉遣いにある。つまり、キリスト教は長い間、人間はみな宗教的には平等でも、社会的な現実においては不平等でよい、と考えてきたのである。人間社会には、上下の秩序がある。神が創られたこの世界には、支配する者とされる者、身分の高い者と低い者、豊かな者と貧しい者がある。だからこそ、その中でお互いに助け合い、上には上なりの品徳と権威が、下には下なりの献身と服従が求められるのである。
 この不平等容認論は、プロテスタントが登場しても変わらない前提だった。宗教改革は、たしかに自由で平等な市民という近代社会の出発点を提供したかもしれない。しかし、前述の「万人祭司制」が示しているのは、あくまでも神の前での万人の平等である。ルターが論じた「キリスト者の自由」は、宗教的な領域における自由であって、その自由が一直線に市民的自由へと発展を遂げたわけではない。彼の思想に共感した農民たちが領主への反乱を起こすと、ルターは容赦なく「盗み殺す農民暴徒ども」を打ち殺すよう勧めた。ここはしばしばルターの暗黒面として、研究者の問でも解釈がわかれるところである。
 そして、そういう彼の判断にも、聖書的な根拠がある。ルターがそこで依拠したのは、新約聖書「ローマ人への手紙」一三章に書かれたパウロの次のような理解である。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。権威に逆らう者は、神の定めにそむく者であるから、そういう者に対しては剣をもって罰するのが官憲に与えられた役割である。」
 以上を要するに、「神の前での平等は、この世の社会における平等を導かない」というのが近代までのごく一般的な共通理解だった。独立後の一八三五年になっても、マサチューセッツではこんな言葉が記されている。「宗教は、人びとの間で富が不平等に分配されていることを是認する。それが社会の常態であることを受け入れるべきである。」
 ピューリタンも、この点では宗教改革者と同じ考え方で出発している。本書の冒頭に引用したウィンスロップの説教を思い起こしていただきたい。「キリスト教的な愛の模範」を語ったあの説教は、上下関係の明確な身分制社会の中で、その秩序に見合って各人が「身の程をわきまえた」応分の振る舞いをするべきことを語っている。それを前提とした上で、お互いに聖書が示しているような愛をもって新しい社会を建設しましょう、という趣旨である。
 実のところ、植民地時代のアメリカは、何とかして「神の前での平等」が「社会的な現実にお ける平等」という要求に直結しないようにと、必死の努力を続けていたのである。もし万人が社会的平等を主張したなら、上に立つ者の権威はどうなってしまうのか。政府や王や教会を敬う人はいなくなり、体制転覆の革命が起き、アナーキー(無政府状態)が生じるのではないか。これが彼らの怖れていたことだった。
 とりわけピューリタンは、イギリス本国の教会のありかたに異を唱えて海をわたってきた人びとである。つまり、本国の宗教的な秩序に異議を申し立てた人びとである。そこで彼らが注意したのは、その宗教的な反対がけっして政治的な反対を意味しない、という意図を明確に示すことだった。そうでないと、彼らは国家への反逆者となってしまうからである。イギリスの国教会体制では、国家の首長は教会の首長でもある。したがって、教会の秩序への異議申し立ては、政治の秩序への異議申し立てと直結して受け取られかねない。彼らはその危険を十分すぎるほどよくわきまえていた。だからピルグリム(巡礼父祖)たちが結んだ有名な「メイフラワー契約」も、「われわれジェイムズ王の忠実な臣下は」という用心深い書き出しで始まっているのである。
 その後の植民地行政でも、イギリス本国への政治的反逆と見なされかねない行動は、厳しく取り締まられた。たとえ宗教の自由という名目のもとに行われたことでも、それが政治的な反抗を企てているように見えるならば、植民地当局は容赦ない弾圧をもって臨んだ。だから、初期のニューイングランド社会は、今日のわれわれからすると、どうにも理解しがたいような自己矛盾を示すことになる。
(100〜102頁)

第三の改革勢力

 一般に「プロテスタント」とは、ルターの宗教改革により始められ、その後戦列に加わったカルヴァンを合わせた新教勢力のことだ、と受け取られている。「ピューリタン」は、そのうち後者のカルヴァン派に属する人びとであり、イギリスに成立した中道派のアングリカン教会のさらなるプロテスタント化を求めた連中である。そこまでは正しい。おそらくアメリカ人でもそこまで知っている人は多くないだろうし、まして日本では歴史の授業でもあるまいし、それ以上の子細な区別を知ってどうなるものでもなかろう。
 しかし、およそ「改革」と名のつく運動には、穏健派と急進派の対立がつきものである。宗教改革の中でも、ルターやカルヴァンはいわば主流派であり、その限り穏健な部類に属する。彼らは、聖書や伝統の理解に関しては大胆な改革を唱えたが、社会の中で教会が占めるべき位置については、中世的な理解をほとんどそのまま踏襲している。この点に大きな異議を突きつけたのが、宗教改革のもう一つの勢力である急進派で、その代表格が「アナバプテスト」(再洗礼派)であった。
 彼らは何を求めたのか。幼児洗礼の廃止である。幼児洗礼は、古代末期に始まって以来、中世の聞ずっと続けられ、プロテスタントのルター派もカルヴァン派もそのままこの伝統を踏襲してきた。しかし、もし「聖書のみ」というプロテスタント主義に忠実であるなら、この長年の慣行は廃止されねばならない。なぜなら、幼児洗礼は聖書に書かれておらず、キリストも命じていないからである。そもそも洗礼は、親の意志ではなく自分の意志で受けるべきではないか。
チャーチ型とセクト型
 これが、アナバプテストの考えであった。「アナ」という接頭辞は、「再び」というギリシア語で、幼児洗礼を否定し、大人になってからもう一度洗礼を施すところからつけられた名前である。もっとも、彼ら自身からすれば、教会の幼児洗礼はそもそも「洗礼」ではないから、彼らの施す洗礼こそ最初で唯一の洗礼だ、ということになろう。
 チョーンシーのエピソードでも触れたが、幼児死亡率の高かった昔、親はできるだけ早く子どもに洗礼を授けてもらうことを願った。洗礼を授けられず、したがって罪の赦しを受けることもなく死んでしまったら、その子はあの世で永遠の罰を受けねばならない、と怖れたからである。しかしアナバプテストは、そんな心配はいらない、と論じた。子どもは自分で善悪を判断できないのだから、たとえ罪を犯しても罰せられるはずがない。彼らの考えでは、年端もいかない子どもが罪の責任を負うはずがないので、罪の赦しの洗礼も大人になってからでよいのである。実に筋の通った話である。
 他方、教会が幼児洗礼を認めてきたのにもそれなりの理由がある。教会は、ローマ帝国以来のコンスタンティヌス体制のもとで、社会と深く融合するようになった。宗教社会学的には、このような体制を「チャーチ」(教会)類型と呼ぶ。チャーチ型の構成では、その社会に生まれた者はみなその教会の成員となる。
 念のため付け加えておくが、「チャーチ」といってもこれは社会学的な概念で、キリスト教に限った話ではなく、宗教一般に共通のことである。たとえば、伝統的な日本の仏教における檀家制や神道における氏子制は、本人の意志に関わりなくその土地に生まれた者をみな含むので、「チャーチ」といってよい。
 この意味で、教会は地上における神の代理であり、神から与えられる超自然的な救いを社会に分配するための唯一の施設である。教会がこの世において特別な存在論的位置を占めていることは、カトリックであるとプロテスタントであるとを問わず、キリスト教のもっとも基本的な信条の一部をなしている。
 ところが再洗礼派は、その教会の存在意義を根こそぎ否定する。そんな制度はこの世と妥協した堕落の結果に他ならず、教会は新約聖書時代の純粋な姿に戻らなければならない、というのが彼らの主張である。前章でも触れたが、宗教社会学ではこれを「セクト」(分派)類型と呼ぶ。セクト型の集団は、自分たちを生んだ母集団に対して常に否定的で、みずから高い倫理意識をもち、入会資格を厳格にして、選りすぐりの成員だけを認める。宗教改革の主流派と急進派との対 立は、現世的な制度の確立を重んじるチャーチ型の社会理念と、それを突き破って純粋な信仰を実現させようとするセクト型の社会理念との激突であった。
 こうした過激な改革志向のため、再洗礼派は「宗教改革左派」とも呼ばれ、マルクス主義的な歴史家には「社会主義の先駆者」と位置づけられたほどである。
(104〜107頁)

フランクリンとクエーカー

 ついでにトリビアを一つ。前章でフランクリンの伝記を引用したが、そこにもどうやらクエーカーが登場している。フィラデルフィアは、創設者ペンがクエーカーだったこともあり、アメリカの都市の中でもっともクエーカi人口の多い町であった。クエーカーは誠実で正直なので、商売でも次第に信用を得るようになり、それがフィラデルフィアの繁栄につながったのである。フランクリンの話の中にクエーカーが登場するのは、自然なことだろう。
 ホイットフィールドの説教を聞いて、ある人が友人から金を借りて献金しようと思ったら、きっぱりと断られてしまった、という話を紹介した。日本語の訳ではよく見えないが、その断りの文句に、実は「汝」霞ΦΦ)という言葉が使われている。「ホプキンスンさん」という呼びかけも、
Friend Hopkinsonとなっている。これらは、金を貸してくれなかったこの人がクエーカーであったことを示唆している。
 あるいは、ここにはフランクリンなりのクエーカーに対する評価が表現されているかもしれない。つまり、彼らは信仰には熱心だが、ことお金に関しては冷静で勘定高い、という評価である。
第六章で説明するが、宗教とビジネスというこの結びつきは、まことにアメリカ的である。 
(114〜115頁)

 『ウォールデン・森の生活』に綴ったことは、日本でもよく知られている。
 反知性主義の伝統を概観するとなれば、彼もその一角を占めるかもしれない。『森の生活』に綴られているごとく、彼も都市文明に背を向け、二年ほど自給自足と晴耕雨読の生活を試みたが、そこには独自の近代知性批判が芽吹いている。ウォールデンはコンコードという町からほんのニキロしか離れていないが、それでも森は森である。「超絶主義」者の}人として、ソローも森には神的なものが宿っていると思っており、そこに住めば堕落前の自然な楽園に住む純粋無垢なアダムのようになれると考えていた。
 エマソンは、やや皮肉を込めてソローのことを「何かに反対するときだけ元気いっぱいになる」と評している。ソローは、アメリカ合衆国の不正義に反対し、とりわけ奴隷制度とメキシコ戦争に抗議し、税金の支払いを拒否して投獄もされた。その「市民的不服従」は、遠くインドで独立運動を志したマハトマ・ガンディにも影響を与えている( れ )。
 しかし、その割にはお気楽で無責任な側面もあったようである。税金の不払いで投獄された時には、誰かが代わりに税金を払ってくれると、保釈された彼はさっさと自分の畑のコケモモ採りに行ってしまったという。彼は、気高い精神の自由を強調したが、実生活では結婚も就職もせず、自立することもないまま長くエマソンの庇護と援助に依存した。彼がしばらく過ごしたウォールデンの森は、そもそもエマソンの所有地を彼の好意で借りたものである。
 エマソンによると、ソローは説教者だが説教壇をもたない。学者でありながら学問を糾弾する。厳粛な良心をもって呑気なアナーキーを推奨する。いわば、「ハーバード卒のハックルベリー・フィン」みたいな存在である。ちょっと矛(ハむソ)盾した滑稽な人物だが、反知性主義にはどちらの側面も重要である。ハーバードを卒業するようなインテリだからこそ、既存のインテリ集団を批判する能力もある、ということなのだろう。後に見るように、このような矛盾は現代の反知性主義者にも共通するところがある。
(142〜143頁)

メソジスト教会の発展

 ウェスレー兄弟を創始者とするメソジストは、独立時にはイギリスとの関係を嫌われてほとんどゼロからの出発となった。しかしその後急成長し、一八二〇年には二五万人、三〇年には五〇万人を擁する最大教派となる。
 急成長の理由は、「監督制」と「巡回牧師制」という機動的なシステムである。監督制とは、教会を担任する牧師の上に「監督」という職務が存在して、いわばその上司が牧師を派遣したり異動させたりする制度のことである。ピューリタンはこのような上下関係をカトリック的であるとして嫌ったが、メソジスト教会はこの制度のおかげで数年ごとに新しい牧師を迎えることができた。
 また巡回牧師制とは、それまでのリバイバリズムで活躍した「自称」巡回説教者を正式に認めて採用したものである。西部では、人びとが広い地域に点在していて人口密度が低いため、従来のように一定の教区を決めてその住民に伝道したのでは効率が悪い。そこで、馬に乗って各地を回り歩く牧師を任命し、広い地域を担当させることにしたのである。
 伝統的なピューリタン牧師は、一度赴任したら生涯そこにとどまる。たいてい町で一番天きな邸宅である牧師館に住み、人びとの尊敬と高給を得ることになる。しかしメソジストの巡回牧師には、まったく違う境遇が待っていた。彼らは、雨風をものともせずに旅を続ける。ひどい嵐の夜には、「こんな時に戸外にいるのは、カラスかメソジストの説教師ぐらいのものだ」と言われたくらいである。だが彼らには、自分たちがアメリカを不信仰から救っている、という自負心があった。教養ある牧師たちが豪奢な礼拝堂で「マッチを擦っている」あいだに、無学な自分たちは「世界に火をつけたのだ」という自負心である。 
(146〜147頁)

もともとプロテスタントは「聖書のみ」を掲げて出発しているが、アメリカではこれが特定の教義を掲げない「神学なし」「信条なし」という意味になる。それに代わって各教派の違いを色分けするのが、所属会員の地位や収入や学歴である。だからさきほどの「読み書きのできるバプテスト」のような言い方が流行るようになる。他にも、メソジストは「靴をはいたバプテスト」、長老派ば「大学に進学したメソジスト」、アングリカン派は「投資の収益で暮らす長老派」などという序列で語られた。
 それでも、信仰復興運動は教派を越えてアメリカのキリスト教に一つの共通感覚を醸成したと言うことができる。それを「福音主義」(エヴァンジェリカル)と呼ぶことは、すでに紹介した通りである。素朴な聖書主義、楽観的な共同体思考、保守的な道徳観などがその特徴で、今日でもそれは健在である。「福音主義」は本来「プロテスタント」と同義なのだが、こういう共通項をもつ限り、「エヴァンジェリカル・カトリック」とか「エヴァンジェリカル・ユダヤ教」というやや矛盾する言葉も使われる。これらの陣営に数えられる人びとは、プロテスタント・カトリック・ユダヤ教という宗派間の垣根を越えて日常的な価値観を共有しており、政治や投票でも似通った動きを見せることが多いからである。
(152-153p.)

2.反知性主義のヒーロー

間抜けなロバ

アメリカ政治でお馴染みのゾウとロバという二つの動物は、それぞれ共和党と民主党を表して いるが、民主党のロバは、アンドリュー・ジャクソン(一七六七1「八四五)大統領に由来するものである。彼は、民主党から出た最初の大統領で、対立陣営に冨。ζωωと呼ばれた。「ロバ」という意味だが、「ばか」「まぬけ」「とんま」という侮蔑語でもある。ジャクソンはそれを逆手に取り、不屈の意志をアピールする言葉として自分でも使うようになった。これが民主党のキャラクターの始まりである。
 現在、彼の肖像はこ〇ドル紙幣に描かれている。アメリカで生活したことのある人ならご存じのように、二〇ドル札は何となく日常生活の基本単位になっている。流通量も多いため、ジャクソンの顔はよく知られている。歴代大統領の人気を調べると、最上位にはワシントンやリンカンやルーズヴェルトといった名前が定番で入るが、その次に来るグループには必ずジャクソンが入っている。このような世論調査を見る限り、人気の高い大統領には戦時の大統領が多い。戦争になると、国政上どうしても大統領が前面に出てくるからだろう。
 逆に言えば、アメリカの大統領は、頭がよければつとまるというものではない、ということである。反知性主義が大統領選挙を左右するのもそのためである。「反知性主義」という言葉は、一九五二年の大統領選挙を背景にして生まれたものである。当時の共和党候補アイゼンハワーは、ノルマンディー作戦を指揮した将軍としての名声で立候補したが、知的には凡庸で、プリンストン大学卒業の優秀な対立候補スティーヴンソンにはとてもかないそうになかった。本人も政治には無関心で、投票したことすらなかったという。しかし大衆は、アイゼンハワーの親しみやすさを好んで「アイ・ライク・アイク」を連呼し、彼の圧勝という結果になる。「知性に対する俗物根性の勝利」と言われた反知性主義の高潮点である。
 昔も今も、アメリカの大統領には、目から鼻へ抜けるような知的エリートは歓迎されない。二一世紀になってジョージ・W・ブッシュが二度の選挙に勝ったのも、同じ理由からであった。知的優秀さの際立つ対立候補に比べて、彼が「ビールを飲みながら気軽に話せる相手」と見なされたからだと言われている。そして、この傾向が最初に現れたのが、「読み書きのできるアダムズ」
(Adams who can write)と「戦のできるジャクソン」(Jackson who can fight)との一騎打ちと言われた一八二八年の選挙であった。 
(153-155p.)

  ホフスタッターは、ジャクソン大統領の時代を「ジェントルマンの凋落」と特徴づけている。それ以前は、アダムズ家に代表されるような上品で教養ある貴族的人物が政治を動かしていたのに、大衆民主主義に押されてジェントルマンが不要になってしまったからである。「不要になった」というよりも、「不利になった」と言うべきかもしれない。上流階級の生まれであるとか、知識人であるとかいうことは、むしろマイナスに数えられるようになった。時代の要請は、「下層階級の人びとの好奇心を刺激し、享楽の欲望を満たし、支持をとりつけるために低俗で野卑なものを提供すること」であった。反知性主義とは、このような背景をもった大衆の志向性である。そして、その同じことが政治の世界だけでなく、宗教の世界にも起こってゆくのがアメリカである。これは、後でビリー・サンデーという大衆伝道者のことを論じる時に出てくるテーマとなる。
 ただし、一九世紀も末になると、何の教育も受けずに赤貧から身を起こして政界や実業界のトップへ上り詰める「たたき上げ」の実例は、少しずつ姿を消してゆく。「アメリカン・ドリーム」
の可能性は、啓蒙主義的なジェントルマンが社会を支配していた時代にはなかったし、その後の高度に産業化され専門化した都市社会の時代にもない。その間に挟まれた一九世紀の一時期にだけ見られるものである。おそらくそれは、アメリカという国家の青年時代の記憶である。そんなふうに消えてしまったからこそ、アメリカはその甘酸っぱい記憶をいつまでも伝説として残しているのではないだろうか。
(167-168p.)

ほら話のできるヒーロー

 ところで、選挙でジャクソンに負けたアダムズがもっとも腹を立てたことは何だったか。それは、こともあろうに彼の愛する母校ハーバードが、そういうジャクソンに身を屈して「名誉博士号」を授与したことである。アダムズは、知性の最後の牙城であった大学までが政権に尻尾を振るさまを見て、つくづく嫌悪を催し、学位授与式を欠席した。
 他方、無学なジャクソンは、海外の知性をも魅了したようである。イギリスの功利主義哲学者ベンサムは、アダムズの古い友人だったので、彼が再選されなかったことを聞いて残念がった。しかしその後、ジャクソンの最初の議会演説を聴いて大いに喜び、この新大統領に長い書簡を送って政権運営に知恵を貸したという。ジャクソン流の大衆民主主義は、「最大多数の最大幸福」というベンサムの哲学に符合するところがあったのだろう。
 ハーバードでの名誉博士号話には、もう少し余談がある。学位授与式では、鳴り物入りで登場したジャクソンへの軽蔑と反感に渦巻いていたはずの聴衆が、たちまち彼に魅了されてしまったのである。授与式はラテン語で行われたが、彼は式の最中に立ち上がって自分でも堂々とラテン語の答礼をした、という噂が流れた。
 もちろん、ジャクソンがラテン語を知っていたはずはない。ある人の回想録によると、それは次のような答辞だったという。

(買い主危険負担の原則、犯罪を構成する証拠物、過去にさかのぼって、怒りの日、多くのものから一を、嫌になるほど、大熊座、暴君には常にこのようにするのだ、見返りの何ものか、安らかに眠れ。) 
(168-169p.)

 「ジャクソニアン・デモクラシー」という言葉があるらしい。
 チャールズ・フィニー

 ジャクソン大統領時代の大衆的なアメリカ民主主義を、「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ぶ。一九世紀アメリカのキリスト教も、この追い風を受けて大衆化し卑俗化していった。第二次信仰復興運動のもっとも傑出したリーダーといえば、チャールズ・グランディサン・フィニー(一七九二-一八七五)だろう。長身で、よく通る大きな声をもち、鋭く燃えるような眼で相手を見つめる彼は、強く人びとの印象に残ったようである。ジャクソンが貴族政治家と独占資本家から連邦政府を奪い取って一般市民の手にわたしたように、フィニーは東部の知識階級から教会を奪い取って一般信徒の手にわたした、と言ってよい。
(174p.)

  反知性主義といっても、フィニーは学問そのものを敵視したわけではない。彼はことに自然科学を高く評価していたが、これもピューリタン以来の伝統である。ピューリタン的な理解によると、神は創造に際して二つの書物を書いた。ひとつは聖書(The Book of Scripture)で、もうひとつは自然(The Book of Nature)である。だから、正しく理解さえすれば、自然は神の栄光を語り出すのである。これは前章で見たエマソンの自然理解でもあり、フライ・フィッシングをするノーマンの自然理解でもある。フィニーが釣り竿の代わりに使ったのは、科学であった。科学によってその神秘を学ぶことは、自然の創始者たる神の意志を探る手段となるからである。
 ここからもわかるように、反知性主義は単なる知性への軽蔑と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である.そのためには、自分の知性を磨き、論理や構造を導くカを高め、そして何よりも、精神の胆力を鍛えあげなければならない。この世で一般的に「権威」とされるものに、たとえ一人でも相対して立つ、という覚悟が必要だからである。だからこそ反知性主義は、宗教的な確信を背景にして育つのである。

宗教か呪術か

 オベリン大学へと移った一八三五年に、フィニーは「宗教リバイバルとは何か」という論文を発表した。その内( むソ)容は、リバイバリストの書いたものとしては驚くべきものである。ふつうの伝道者なら、「リバイバルは、神の力によって起こる奇跡だ」と言うだろう。ところが彼は、「リバイバルは奇跡ではない」と断言したのである。これは、宗教学の常識からすると、ずいぶん大胆な発言である。というのも、奇跡をどう考えるかで、「宗教」と「呪術」とが区別されるからである。
 この一一つを最初に区別したのは、フィニーの時代より少し後のイギリスで、『金枝篇』という壮大な宗教史研究を書いたジェイムズ・フレイザー卿である。フレイザーは近代宗教学のさまざまな概念を創出したが、彼によると「呪術」は昔の「科学」である。呪術の考え方には、原因と結果を合理的に関連づける体系が見られるからである。たとえば、雨乞いをするには、太鼓を叩いて雷鳴の真似をする。あるいは、憎い相手には、わら人形にその人の髪の毛を織り込んで呪いをかける。そこには、模倣や感染という明快な連関がある。こういう連関は、現代人の目にはいかに非科学的に見えても、当人たちにとってはそれなりの合理性をもっている。だからフレイザーは、呪術を前近代的な科学と同列に置いたのである。呪術は、特定の手段によって特定の目的をもたらそうとする努力である。これは科学の手続きと同じで、そこに不思議なことは何も起こらない。期待された目的が期待された通りに起きるのが当然なのであって、このプロセスには神も奇跡も信仰も不要である。だからフレイザーは、「呪術は奇跡を行わない」という名言を残している。
 これに対して、「宗教」はまったく別の思考法をとる。もし何か奇跡があるとすれば、それは人間ではなく神が起こすのである。人間にとって、それは「起こす」ものではなく「起きる」ものである。つまり、たまたまその場に居合わせて、それを目撃するにすぎない。主人公は人間ではなく、あくまでも神である。だからそれが奇跡であることを知るには、どうしても信仰が必要なのである。
 かつてある日本の新興宗教の教祖が、座禅を組んだまま空中浮揚してみせた。信者たちはその光景を目の当たりにして盲信的な弟子となり、結局は地下鉄サリン事件を起こすに至ってしまった。しかし、フレイザーの区別からすると、あれは奇跡ではなく、宗教でもない。「これからこんな奇跡を起こしますよ」と予告しておいて、それをその通りに引き起こすことは、宗教学的に言うと奇跡ではない。どんな方法を使ったかはともかく、特定の手段により特定の結果を実現させただけなので、それは科学であり呪術である。いずれも、何かしらの種明かしがある、という意味では合理的である。そういう行為は、「奇術」といってもよい。ちなみに、英語では呪術も奇術も同じ「マジック」である。
(176〜179頁)

 もう一つ、これは学問上の余談になるが、ムーディの活躍は、近代宗教学の歴史にも深い影を落としている。宗教学の世界でロバートソン・スミス(一八四六ー一八九四)の名を知らぬ者はいない。ロバートソン・スミスは、聖書を古代異教世界に共通のトーテミズムから理解したため、異端の烙印を押され、リベラルなはずのスコットランド自由教会の神学部から追放されてしまった。その追放劇に加担したのが、ムーディの伝道を支持した人びとだったのである。
 ムーディのような素朴な信仰は、原理主義に転化しやすい。そして、いったんそうなると、批判に対する寛容の余裕は一気に失われてしまい、学問的なアプローチそのものも疑問視されてしまう。後にムーディはかつての熱気をもう一度引き起こそうと、イギリス全土へのリバイバル伝道旅行を再企画したが、ロバートソン・スミスの異端裁判の余波で、以前の熱気はすっかり冷めてしまっており、企画は失敗に終わった。これ以降のイギリスでは、教養ある人びとがキリスト教への興味を失い、潮が引くように教会から知性が抜けていくことになる。ここはアメリカとの大きな違いである。 
(199頁)

知性とは何か

 まず、知性とは何か。「知性」(intellect)は「知能」(inteligence)とどう違うか。ホフスタッターもこの二つを区別していろいろと説明しているが、いちばんわかりやすいのは、二つの言葉の使い道を見てみることである。「インテリジェント」なのは、人間とは限らない。「インテリジェントな動物」はいるし、「インテリジェントな機械」はある。しかし、「インテレクチュアル」な動物や機械は存在しない。「知能的な動物」はいるが、「知性的な動物」はいないのである。つまり、「知性」は人間だけがもつ能力である。 
(259頁)

 「バイブル・ベルト」という言葉もある。
 ここに言う「政府」とは連邦政府のことであり、それに反対する人びととは主に南部諸州を中心とした「バイブル・ベルト」の地域にいる人びとである。彼らは、自分の子どもたちに何を教えるべきか、ということで連邦政府から指令を受けるのを好まない。つまり、家庭における価値観や教育というプライベートな部分に連邦の権力が踏み込んでくることに対して、怒りに満ちた異議を表明しているのである。ムーディやサンデーの時代とは異なり、今日の反対は、科学そのものよりも、科学が権力と結びついていることに向けられている。反知性主義は、ここにも表現 
(265頁)

 




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