きょうこの頃



2020年2月3日(水)

 水村美苗『増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で』読了。

 ブログ参照。


 息を呑んだ。
ロシア語であった、学生のころ大学で上映していたソビ⊥ト映画4,一いくつも観力の、すぐにわかった。映画で聞いたのと同じ流暢なロシア語で、リトアニアの若い,副人に何か質問している。ユーラシア大陸には、日本人とそっくりな顔、をして、ロシア語を流暢に話す人たちがいるのは知っていた。だが、日本人とそっくりな顔をして、ロシア語を流暢に話す人を実際に見たのは初めてであった。モンゴルの近代史を知ってさえいれば驚くほどのことはなかったのだが、そのときの私はひたすら驚いた。盆栽の話は頭から吹き飛んでしまった。
「ロシア語を話されるのですか?」
「はい、モスクワで勉強しました」
リトアニアの詩人が問に入った。
「かれのロシア語は私のロシア語よりよほど上手です」
モンゴルの詩人はそれを聞いて鷹揚に笑っている。
そのとき私は初めて理解した。この二人は、たんに偶然に通路を隔ててすわっていたのではなかった。東アジア人の六十近い男と白人の若い男は、はたからみれば奇妙な組み合わせではあったが、ロシア語を介して友達となっていたのである。そうか、人はモンゴルに生まれて、モスクワに留学し、ロシア語を学んだりするのか。そして、人生も後半になって今度はアメリヵの大学に招かれ、そこでかつてモスクワで学んだロシア語で、耳にピアスをした若いリトアニア人と友達になったりするのか。一九八九年、ベルリンの壁が崩れ落ちると同時に冷戦構造が終焉をむかえ、アメリカが一人勝ちして、地球がどこまでも平たく資本主義に覆われるようになったーとは、ここ二十年近く、何回となくくり返された言葉である。それが事実としてそのまま目のまえにあった。いつのまにか二人はロシア語で会話をし始めていた。しばらくすると、リトアニア人の斜めうしろにすわっていた白人の中年の女の人もそのロシア語の会話に加わった。あとでわかったが、イフゲーニアという、ギリシャ神話に出てくるお姫様の名をした、ウクライナからの小説家であった。
うしろの方からは中国語と韓国語が聞こえてくる。
(16〜17頁)

アメリカの中西部、ことにアイオワ州は、田舎の代名詞で、まさに、どこまでもとうもろこし畑が続くことで知られている。アイオワ・シティは、その州のよんまん中にある、州立のアイオワ大学を中心とした大学町である。人日六万人のうらの半数が学生だという。だが、住むうちにわかってきたのは、アイオワ・シテでがいわゆる典型的な「川舎の大学町」ではないということである。小さな町なのに、大学の内から外にかけ、図書館、美術館、劇場、映画館、書店、各国のレストランなど、結構なものがところせましと並んでいる。とりわけ珍しいのは、アメリカ、しかも中西部だというのに、マンハッタンのグリニッチ・ヴィレッジにでもありそうな、個人が経営するこぢんまりとした喫茶店が何軒かあることである。その理由は一つ。アイオワ大学はへ上米で初めて設立された創作学科(IWW=Iowa Writer's Workshop)が有名で、その創作学科の存在が、この町をたんなる田舎の大学町とはちがう、きわめて文学的な町にしているのである。(事実二〇〇八年にアイオワ・シティはユネスコから「文学の都市」として全米で唯一指定された都市となった。)

全米で初めて創立されたというアイオワ大学の創作学科は、今、全米で一番優れた創作学科だということにもなっている。そこで教えるのが作家として名誉なのはもちろん、そもそもそこで学ぶのが学生として名誉であるらしい。毎年、小説家志望、詩人志望、それに数人の翻訳家志望を加え、κ上人余りの生徒が人学するが、小説家志望となると約三十倍の難関をくぐらねばならない。日本の大学の創作学科とちがい、すでに大学を卒業した生徒たちである。創作学科などで文学の書き方を学ぶというのは、日本では評判が悪く、私自身、作家が教えて食べられるという以上の意味はあまり見出していなかったが、今回、その難関をくぐってきた学生たちをまのあたりにして、だいぶ思いを改めた。大学を出たあと比較的若いうちに二年間だけでも毎日ものを書く生活を送る。そのあと、運がなければものを書く仕事にはつけないが、若いころ受けたその訓練を、一生のうち、いつかは役に立てたいとその機を狙って書き続ける。そういう感心な心がけの学生たちが全米から集まっていたのである。
 創作学科が設立されたのが一九三六年。それから三十年後、長期にわたってその創作学科のディレクターを務めていたポール・エンゲルという詩人が辞職したときである。
ニエロフアリン彼の将来の妻となる中国人の小説家、ニエ華苓が、全世界から作家を集めてくるというプログラムを立ち上げるのを提唱した。それが、私が参加したIWPであった。
一九六七年に始まって以来千人以上の作家を百力国以上の国から迎えたという(注一ゾ数年前、財政困難に陥り、プログラムを打ち切ろうという決断が下されたそうだが、予想もしなかった学生と市民の反対デモがくり広げられ、命がつながったという。私が参加したときは新しいディレクターを迎えて息を吹き返したところであった。アメリカ国 
(28〜29頁)

や人生が与えてくれる数々の贅沢ー上質な空間、美しい衣服、おいしい食物などを楽しむことができたであろうと思わせる女の人だったからである。
別れが近くなったころ彼女は略い顔,を見せた。暗い顔を見せると目の下が青く沈んで歳が川る。
「ポーランドに、戻ったらまた大学で教えなきゃなんない.給料の安いことといったら……」
彼女はワルシャワのアパートで猫と住んでいると言っていた。
いつとはなしに、一番親しくなったのは、ブリットという名の、ノルウーからきた女の作家であった。私たちは知り合ってしばらくするうちに、夏の陽射しを惜しんで歩道に繰り出したレストランで、風にそよ吹かれながら、一緒にビールを呑んだり食事をしたりするようになった。一緒に劇場に足を運んだりするようにもなった。赤毛でそばかすだらけのブリットは、抜きんでて性格がいいうえに、すがすがしい常識人でもあった。翻訳もするので英語もト手である。だが、彼女と親しくなったのは、そのような理由だけではない。互いに金持の国からきたので、なんだかんだと一緒に行動をとりやすかったという事情が、そこに加わったのである。作家の多くは外でビールをのむという些細な贅沢さえかんたんに自分に許そうとはしなかったが、赤毛のブリットとは、昼間からビールを呑みパリパリとタコスをかじりながら、つまらぬ嚥駄遣いをした罪も告白

さらには、さまざまな政治状況というものもあった。
人は金持な国や貧乏な国で書くだけでなく、さまざまな政治状況のもとで書いているというのも、アイオワに行って初めて身をもって感じたことである。IWPのようなプログラムに参加できること自体、最低限は機能している国からきたのを意味した。国がまったく機能していなければ、作家という職業も成り立たない。だが、日本からきた私のように、泰平の世を謳歌してきた人間ばかりでなかったのはいうまでもない。
旧ソビエト圏からの作家にとっては、まずは、.言論の自曲というものが、あたりまえのものではなかった。たとえばル!マニアからの詩人のデニーサ。言葉も文化もフランスに近いせいであろう、「げ。。げこという入を小馬鹿にした声も、唇を突き出したり首をすくめたりする所作も、どこかフランス人に似ており、しかも小粋で、とても、もと「東側の人間」には見えなかった。ところが、そんなデニーサの頭の中は、「国家権力とどうつきあってきたか」というような難しいことでいっぱいであった。ソビエトの支配下では国家の検閲は内容だけでなく形式にも及んだ..二十世紀も終わりのころになって、韻を踏まない自由詩は公には発表できないという滑稽なことがまかり通っていたのである。 
(52〜53頁)

食べるために国家と妥協して文学者(そして人間)としての尊厳を失うか、食べられなくとも国家と妥協せずにいるか。デニーサにとってそのような選択はつい昨日のことのように思えるらしく、公に発表するときも個人的に話すときも、その嵐択をめぐっての話が必ずでてきた。
 もちろん、今現在、言論の自由の抑圧を経験している作家たちもいる。
 ご存じのように、中国は言論の自由が保証された国ではない。徐々にわかっていったのは、白いスーツが似合う「都会のあんちゃん」が、実は言論の自由の闘士だという事実である。ニューヨークに居を移し、本土中国では発表できない作品を集めて編集し、世界中に散らばった中国人に向けて出版しているという。ニューヨークに住んでいるというわりには不思議と大して英語を話さず、廊下で挨拶をする程度のつきあいに留まったが、私がみなより一足先に帰るとわかると、出発のまえの晩、部屋のドアの下に英訳されたかれの短編が忍ばせてあった。
 中国本土では発表しなかったものである。
 主人公の祖父は極めて貧しい育ちなのにもかかわらず、共産党革命のあと、先祖が土地をもっていたことが判明し、「地主の血」を引くというレッテルを貼られて投獄され、いじめぬかれ、残りの人生を半分気が狂(ふ)れたまま送る。やがて年老いて敗血症にかかり、度重なる輸血を受けることになる。かれの身体に「百姓の血」が入っていくのである。
かれは歓再する一そして、後悔する。こんなに便利な方法があったのなら、なぜ、あんなにいじめぬかれるまえに、自分の「地主の血」を「百姓の血」に入れ替えなかったのだろう。自分の無知を悔やんだかれは、息子や孫に、一刻も早くかれらの血を「百姓の血」に入れ替えるよう言い残す。そして最後は、これで自分の血はすべて「百姓の血」に入れ替わった、もうあの世に行っても何一つ怖いことはない、よかったよかった、ようやく安心して死ねる、と言って実際に安心して死んでいくーという悲喜劇的な筋である。
 小説の後半は主人公の孫がニューヨークにたどり着いてからを中心に展開され、資本主義の波にどうしても乗れなかったのが、ある日、コカコーラを腕にこっそりと輸血すると突然すべてがうまくいくようになるというファンタジー・ノベルとなる。共産主義と資本主義とどちらも批判した物語であるが、前半の「百姓の血」の部分が圧倒的にリアリティがあった。
 そして、軍事政権下にある、ビルマ(ミャンマー)からの初老の作家。この作家はなんとIWPに参加している最中に、アメリカに亡命してしまったのである。素足にサンダルをはき、腰に色あざやかな民族衣装をまとい、亜熱帯がそのまま動いているようなふんいきをあたりに撒き散らしながら、蛍光灯に照らされたホテルの廊下をいつもスタスタと歩いていた。親日派で、『ビルマの竪琴』を素晴らしい本だといい、私には満面
(54〜55頁)

 この世には限られた公平さしかない。善人は報われず、優れた文学も日の目を見ずに終わる。日本近代文学が存在したという事実が世界の読書人のあいだで知られていること。それは、日本近代文学が優れていたことを、必ずしも意味するものではない。そもそも日本近代文学の存在が世界に知られたのは、日本の真珠湾攻撃を契機に、アメリカ軍が敵国を知るため、日本語ができる人材を短期間で養成する必要にかられたのが一番大きな要因である。アメリカの情報局に雇われた中でも極めて頭脳優秀な人たちが選ばれて徹底的に日本語を学ばされ、かれらがのちに日本文学の研究者、そして翻訳者となったのであった。エドワード・サイデンスティッカー、ドナルド・キーン、アイヴァン・モリスは海軍で、ハワード・ヒベットは陸軍で。ほぼ同世代で、戦前の日本に育ったスコットランド人のエドウィン・マックレランも、ワシントンの情報局で働いたあと翻訳者となった。
129p.

 一九六八年に川端康成がノーベル文学賞を受賞したのも、そのように英訳があったおかげである。ノーベル文学賞を非西洋人が最初に受賞したのはインド人のタゴールで一九一三年。だがタゴールはベンガル語で書いた詩を自分で英訳しての受賞である。非西洋語の作家が受賞したのは、なんとそれから半世紀以上たった一九六六年。オーストリア・ハンガリー帝国に生まれたが、ヘブライ語で書くようになったイスラエル人の作家である。そして、その二年後の一九六八年に、川端康成が続く。非西洋語の受賞者はそのあと二十年間なかったことを考えれば、いかに英訳が出版されたことが日本文学にとって重要であったかがわかる。ノーベル文学賞の闇の部分は、その政治性を別にしても、翻訳という、文学にとってもっとも根本的な問題を真剣に考えていないことにある。だが、日本人の作家が受賞すれば、日本近代文学の存在がより世界に知られるようになるのはたしかである。やがて、若い世代の翻訳者が育ち、日本近代文学の古典とされる作品だけでなく、三島由紀夫、そしてのちに日本人二人目のノーベル文学賞受賞者となる大江健三郎などの作品が、同時代的に英語に翻訳されるようになる。それらの翻訳を通じ、日本文学はさらに世界で知られるようになったのであった。
130p

 この本は、この章から、これまでにも少しつつ触れてきた三つの概念を中心に展開させる。
 まずは〈普遍語〉。日本語としては、〈世界語〉という表現の方がまだ落ち着いた感じがするが、英語の「universao langauge」に該当する表現としてここで使う。
 二つ目は、〈現地語〉。これは日本語として定着しており、英語のコ「local language」に該当する。
 三つ目は、〈国語〉。これは英語の「national language」に該当する。英語の「national language」は「official language」=「公用語」ほどはっきりと規定された表現ではない。国家が法的にそう規定した言葉を指すことも、ある地域で、事実上、共通語として流通している言葉を指すこともある。ここでは、〈国語〉を、「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」を指すものとする。〈国民国家〉という概念が近代的な概念であるように、〈国語〉という概念も近代的な概念である。ただし、〈国民国家〉として独立したい民族、さらには自治地区になりたいのに、政治的な理由でそうなることができない民族が、〈自分たちの言葉〉だと思っている言葉も、ここでは〈国語〉とよぶ。
 もちろん、ある国民が使う〈国語〉は必ずしも国境と一致しない。同じ〈国語〉がさまざまな地域で使われていることもあるし、〈国語〉は存在せず、一つの地域で複数の「公用語」が使われていることもある。さらには、〈国語〉と「公用語」とを両方もつ国もある。また〈国語〉がおおやけには存在しながらも、実際には広く流通していない国もある。だがここでは、そのような細かいことには踏みこまない。
 くり返すが、中心となる概念は〈普遍語〉と〈現地語〉と〈国語〉の三つ。いうまでもなく、人類の言葉の歴史は、実際は、ひどく混沌として錯綜したものである。この三つの概念は、その混沌として錯綜した人類の言葉の歴史を、できるだけ整理して考えていくために使うものでしかない。 
134-135p

 まず、これからしばらくは、二つの言葉を操ることができる人たちを、「バイリンガル」とよばずに、「二重言語者」という耳慣れない表現でよぶ。「バイリンガル」という表現を避けるのは、「バイリンガル」とは、日本語では、ニカ国語を話せるという意味合いが強いからである。ここでいう「二重言語者」とは、自分の〈話し言葉〉とはちがう外国語を読める人を指す。読むという行為を中心に、人間の書き言葉にかんして考えていきたいからである。自分の〈話し言葉〉しか読めない人は「単一言語者」である。
また、「非西洋圏」、あるいは「非西洋語」や「非西洋人」という表現。、日本語ではあまり使わないが、近代を理解する上で、重要な概念である。その概念をあらわすのに、毎回、「西洋ではない」とか、「西洋にあらざる」などと長い表現を使うのを避けるため、漢字のもつ抽象力に頼ることにした。英語でいう「non-Western」や「non-European」と同じである。(英語では「the West」に対して「穿Φ器ω二、すなわち「その他」あるいは「残り物」という、尾韻を踏んだ表現を、西洋中心主義を批判する意味を含めて使うことがある。)もちろん、「西洋」と「非西洋」という対立自体、あいまいな部分を残す。オーストラリアやニュージーランドは主にヨーロッパからの移住者が英語を〈母語〉として使ってきた国々だかち、地理(そして先住民)を無視して「西洋」に入れるとしても、たする人が多いにもかかわらず、それらの人々の過半数は白人とインディオの混血で茜老さらには、この〈母語〉という表現。日本語では今はまだ「母国語」のほうが〈母語〉よりも馴染み深いが、赤ん坊のころに自然に学ぶ言葉が、国家の言葉と一致しているとは限らないので、この本では〈母語〉という表現を使うことにした。「ボゴ」という音は耳に快くないが、より正確である。英語の「mother tongue」に該当する。

それでは、まず、〈普遍語〉とは何か?
〈普遍語〉とは何かを考えるのに、ちょうどよいきつかけを与えてくれる、一冊の本
ーしかも、過去四半世紀にわたって世界中で大きな影響をもった一冊の本がある。そ
こに〈普遍語〉にかんして深い考察がある訳ではない。それどころか、そこには〈普遍語〉にかんしての考察が驚くほどない。だが、まさにそこに〈普遍語〉にかんしての考察が驚くほどないというその事実から、〈普遍語〉とは何であるかということが、むしろ、透かし彫りのように逆に見えてくるのである。
その本とは、ほかでもない、すでに古典となった、ベネディクト・アンダーソン著の
『想像の共同体』である。近代国家の成り立ちについて分析した本で、なかでも〈国語〉と、〈国民文学〉と、ナショナリズムとの結びつきを明らかにした部分が有名である。
136-137p

 出版されたのは一九八三年、増補版が出版されたのは一九九一年。翻訳されたあと日本でも大きな反響を呼び、ことに文学研究者のあいだで、〈国民国家〉と〈国民文学〉について考える際の必読書となった(注七)。
『想像の共同体』の核心を一言で要約すれば、次のようになる。

 国家は自然なものではない。

 今、人類の多くーことに日本やヨーロッパなど先進国の国民は、国家の存在を自明なものだとしている。だが、アンダーソンいわく、国家とは、さまざまな歴史的な力が交差するうちに造られていった、「文化的人造物」でしかない。だが、いったん造られると、説明しがたいほどの「深い愛着(アタツチメント)」を人々に引き起こし、事実、人は、お国のために数百万の単位で死んでいったのである。
〈国語〉の成立に話をしぼりたいので、ここで紹介するのは、「序」を含む、『想像の共同体』の最初の三章である。

 右の要約に倣ってこの最初の三章を、一言で要約すれば、次のようになるであろう。

〈国語〉は自然なものではない。

 今、人類の多くは、自分たちの〈国語〉を、おのが民族が、太古の昔から使つてきた言葉だと思いこむにいたっている。ところが、『想像の共同体』によれば、〈国語〉とは、いくつかの歴史的条件が重なって生まれたものでしかない。それでいて、いったん〈国語〉が生まれると、その歴史的な成立過程は忘れ去られ、忘れられるうちに、人々にとって、あたかもそれがもっとも深い自分たちの国民性ーー民族性の表れだと信じこまれるようになる。〈国語〉はナショナリズムの母体となり〈国民文学〉を創り、今度はその〈国民文学〉が母体となり〈国民国家〉を創っていく。物理的に存在するわけでもないのに、人がそのためになら命を抛(なげう)っていいとまで思う、アンダーソンいわくの、「想像の共同体」を創っていくのである。
〈国語〉の成立にかんしての、アンダーソンの歴史的な分析が画期的なのは、資本主義の発達という、下部構造のヴェクトルを入れたことにある。ご存じのように、十五世紀半ば、ヨーロッパで、グーテンベルク印刷機が発明され、今まで手で写していた書物が機械で印刷できるようになった。グーテンベルク印刷機の発明が人類の〈書き言葉〉の歴史のなかでいかに大きな意味をもつに至ったかは周知の事実である。だが、アンダーソンいわく、たとえ、グーテンベルク印刷機が発明され、書物が機械で印刷できるようになっても、その印刷された書物が商品となって流通しなくては、印刷機の発明が社会
138-139p

事実、「聖なる言語」が少数の人間の言葉であったことに強調を置くアンダーソンが、「聖なる言語」にかんして、くり返し使う形容詞がある。「〉需き@」1日本語では「秘義的」とふつう訳される形容詞である。「Arcane」は「mysterious=神秘的」などという言葉と同義語であり、少数の人にしかわからないという意味をもつ。具体的には、それら少数の人とは、アンダーソンによつて、「文人」「エリート」「高等インテリゲンチァ」などとよばれる人たちである。少数にしかわからないとは、あたりまえだが、残りの大多数にはわからないということである。「〉目きΦ」の語源は、ラテン曲の 
153p

 ラテン語が優れて〈学問の言葉〉でもあったのを認識すると、あたりまえのことが見えてくる。のちに世界を制覇するようになる近代ヨーロッパーそれが、いかに〈学問の言葉〉としてのラテン語によって創られていったかという事実である。そして、それは、『想像の共同体』に描かれているのとはまったく別のヨーロッパが急に見えてくるということにほかならない。
 ラテン語が〈普遍語〉として大活躍し始めるのは、カトリック教会の力が弱まり、度重なる聖戦を通じて、イスラム文化圏で一千年以上保持されていたギリシャ哲学ーキリスト教圏では途中から禁じられるようになったギリシャ哲学に、ヨーロッパの人々がふたたび触れるようになったころからである。
 まずは自然科学である。スコラ派の天動説に矛盾を見出したコペルニクス。かれが唱えた地動説は、「コペルニクス的転回」という表現にあるように、人類のもっとも大きな発見の一つである。そのコペルニクスは、今のポーランドに生まれた。数十年後、ガリレオが、望遠鏡を使ってコペルニクスの地動説の正しさを確証するが、、ガリレオは、コペルニクスの故郷ポーランドを遠く離れた、今のイタリアに生まれた。また、ガリレオを擁護した同時代人のケプラーは、今のドイツに生まれた。さらに数十年後、ニュートンがガリレオとケプラーに数学的な証明を与えるが、ニュートンは海向こうのイギリスで生まれた。コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートンという、近代科学が辿ったもっとも重要な遭のりは、ポーランド、イタリア、ドイツ、イギリスと、ヨ!ロッパ全土を大きく忙しく駆けめぐる道のりだったのである。そして、かれらはみなラテン語で書いた。十七世紀後半に活躍したニュートンでさえまだラテン語で書いていたので.ある。 
164-165p

 二十世紀に入ってからの実存主義に絶大な影響を与えた、キェルケゴールは代表的な例である。デンマーク人のキェルケゴールは、ドイツ語で書くこともできたであろうに、ヘーゲル哲学の批判を、わざわざデンマーク語で展開した。そのせいで、生前は広く読まれることはなかった。〈自分たちの言葉〉で書くのに固執したため、かれの書いた噛おそれとおののき』などがかくも文学的な色合いを帯びたものになったとはいえよう。
だが、かれは自分の書いた言葉が果たして〈読まれるべき言葉〉かどうか、生きているあいだに広く世界に問いかけることはできなかったのであった。
 しかし、である。
181p

  ゆえに、〈読まれるべき言葉〉を読みつぐのを教えないことが、究極的には、文化の否定というイデオロギーにつながるのである。文化の否定というイデオロギーのそもそもの種は近代西洋のユートピア主義にあり、それは、原始共産制礼賛、文化的資産を持つ者と持たざる者との差をなくそうとするポピュリズム、社会の規範からまったく自由な〈主体〉の物象化など、さまざまな形をとって、西洋でも文化の破壊を招いてきた。
だが、非西洋においての文化の破壊は、西洋とは比較にならないすさまじいものとなった。中国の文化大革命は貴重な文化財の多くを地球から永遠に消し去り、読書人を吊し上げて辱めた。カンボジアのクメール・ルージュにいたっては読書人をことごとく虐殺した。日本の戦後五十年の国語教育を、文化大革命やクメール・ルージュと比べようというわけではない。もともと文学好きの日本人である。国語教育を通じて優れた文学を子供たちに読ませる努力は戦後も続き、優れた文学に親しんだ人たちが育ち、一時期はこの世の春とばかり文学は栄えた。作家たちは殺されるどころか「文化人」の代表として大きな顔をしていられた。作家によっては羨ましいほどの大金持にもなった。だが、
日本の国語教育の理想を、〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てるところに設定しなかったーすなわち、文化を継承するところに設定しなかったがゆえに、時を経るに従い、しだいしだいに〈読まれるべき言葉〉が読みつがれなくなっていったのである。
〈読まれるべき言葉〉を読みつぐのを理想としない教育の意味をあえて極限まで突き進めれば、それはやはり文化の否定と言わざるをえない。
 文化は国家のものでもなければ、権力者のものでもない。私たち人間のものである。
だから、難民が自分の国を追われても、何とかして自分たちの〈読まれるべき言葉〉を継承していこうとするのである。「さまよえるユダヤ人」にいたっては、国が亡ぼされたあと実に二千五百年にわたって世界中を流浪しながらも嵩張る教典だけは宝物のように抱えて読みつぎ、自分たちの文化を継承してきた。
 中国の文化大革命は一党独裁のもとでおこったことである。クメール・ルージュの虐殺も長年にわたる植民地支配、それに続いた腐敗政権、さらにはヴェトナム戦争の波及効果のせいでおこったことである。しかし、日本は戦後五十年のあいだ、平和と繁栄と言論の自由を享受しつつ、知らず知らずのうちに自らの手で日本語の〈読まれるべき言葉〉を読まない世代を育てていったのである。〈書き言葉〉の本質が読むことにあるのを否定し、文化というものが〈読まれるべき言葉〉を読むことにあるのを否定し、ついには教科嘗から漱石や鴎外を追い出そうとまでしたのである。そして、誰にでも読める
380-381p

前の序章が、たいへん興味深い。なにしろ、当時は、「教養ある英国人」でさえも、日本などという極東の島国にかんしては、何の知識もない。それだけではない。知識がないどころか、日本人にとってはあれだけの意味があった明治維新も念頭にない。日本という国もどうせ西洋の植民地になっているのにちがいないと思いこんでいるのである。
彼らは訊く。「ハリー・パークス卿は日本の総督でいらっしゃるの?」「日本の総督は終身官でしたっけ?」「日本はいまロシアの領土だったっけ?」。このような〔教養ある英国人」の無知は、日本が西洋の植民地となるのを免れたのが、いかに例外的だったかを教えてくれるし、また、明治維新のあとも、福沢諭吉が日本が独立国でいられるかどうか憂慮していたのと、呼応する。 
436p

 日本語が亡びるとき1英語の世紀の中で』を書く前に読むべきだった本がある。『イザベラ・バードの日本紀行』。イザベラ・バードという勇敢な英国女性旅行家が、明治維新から十年後の一八七八年(明治十一年)、まだ西洋人が足を踏み人れたこと
のない車北や北海道などを巡ったときの思い川を文章にしたものだが、旅行記が始まる
455p

巻末訳者注釈


四章
(注十二)加藤徹「明治維新を可能にした日本独自の漢文訓読文化ー特集 中国古典の叡智に 学ぶ」『中央公論』六月号、二〇〇八年。氏の小論を読み、「漢文」にかんしてのいくつかの 疑問が解けた0また、「漢文」を「古文(グーウエン)」とよぶのを知った。
(注十三)山口仲美『日本語の歴史』岩波新書、二〇〇六年。漢文訓読でカタカナの占める地位 がどう視覚的に変化していったかについて、氏の本で初めて具体的にわかった。
(注十四)品田悦一「国民歌集としての『万葉集』」、ハルオ・シラネ・鈴木登美編『創造された 古典』新曜社、一九九九年。
(注十五)鈴木範久『聖書の日本語ー翻訳の歴史』岩波書店、二〇〇六年。
(注十六)加藤周τ丸山真男校注「翻訳の思想」『日本近代思想大系』岩波書店、一九九一年。
(注十七)丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書、一九九八年。
五章
(注十八)『金色夜叉』が、バーサ・M・クレーというイギリス人女性が書いた『女より弱き者』 (『Weiker Than a Woman』)をもとにしたというのは、堀啓子という研究者によって二〇 〇〇年に発見された。
六章
(注十九)Kevin Kelly,"Scan This Book"The New York Times Magazine,May 14.2006.
(注二十)さらには、二〇一三年、インターネットを通じ、米国の国家安全保障局が膨大な個人 情報を世界中から収集していることがわかったが、ここではそれにも触れない。

 









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