田中智学は八紘一宇を「道義的世界統一」と意味づけた
八紘一宇の塔が建った昭和15年には、大東亜共栄圏の建設を一標として7月凶11に閣議決定された「基本国策要綱」冒頭の「根本方針」において、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国(ちようこく)ノ大精神二基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ」という形で、八紘一宇は国家の方向性を示すスローガンとして公的に認められたのだった。
肇・国とは、初めて国を建てることの意味であり、具体的には神武天皇の建国のことをさしている。神武天皇は、まつろわ濾民を平らげながら、日向から大和へむかい、そこに、『日本書紀』の表記を使うなら、「帝宅(みやこ)」を造りはじめた。神武天皇の側からすれば、それは国を統一する偉業ということになる。だが、征服の対象となった側からすれば、それは侵略されることを意味する。八紘一宇ということばには、常にこうした問題がつきまとってくるのである。
八紘一宇ということばを最初に使ったのは、日蓮主義者で、国家主義的な宗教団体である国柱会を組織した田中智学である。田中は、大正H(1922)年に刊行された『日本国体の研究』(天業民報社刊、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで公開)の冒頭に収められた「宣言」のなかで、「天祖は之を授けて『天壌無窮』と訣し、国祖は之を伝へて『八紘一宇』と宣す」という形で、八紘一宇に言及している。天祖は天照大神(あまてらすおおみかみ)のことで、国祖が神武天皇のことである。そして、この本の第十四章のタイトルを八紘一宇としている。ただ、この章は4頁ほどの短いもので、八紘一宇をめぐって、川中は詳しい畿論を展間ーているわのてけない, その章で田中は、「道義的世界統一」と「悪侵略的世界統一」とを区別した上で、八紘一宇を道義的世界統一として論じている。
世界人類を還元として整一する目安として忠孝を世界的に宣伝する、あらゆる片々道学を一蹴して、人類を忠孝化する使命が日本国民の天職である、その源頭は堂々たる人類一如の正観から発して光輝燦燗たる大文明である、これで行(や)り遂げようといふ世界統一だ、故に之を「八紘一宇」と宣言されて、忠孝の拡充を予想されての結論が、世界は一つ家だといふ意義に帰する。
忠は、家臣、臣下が主君に対して忠実であることを意味する儒教的な道徳観念で、ここでは天皇に対する忠が想定されている。孝は、父母に対して仕えることを意味し、忠孝は、日本人の道徳のもっとも重要な基盤とされてきた。そこから田中は、悪侵略的ではない、道義的な世界統一という考え方を導き出しているわけである。この論理は、すでに見た『八紘一宇の精神』と共通している。日本には八紘一宇の精神に従って、世界を統一する義務があるが、それは忠孝といった道徳的な意義にもとつくものであるから、悪侵略的世界統一にはあたらないというのである。 (28〜29頁)
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日本仏教の各宗派において、僧侶と俗信徒との距離がもっとも近いのが浄土真宗の場合である。浄土真宗では、阿弥陀仏の絶対性が強調され、信徒であれば誰もが唱えることができる念仏の実践に中心がおかれているために、僧侶に対して特別な地位は与えられていない。そもそも浄土真宗の僧侶は出家ではないのである。
それに次いで距離が近いのが日蓮宗の場合である。開祖の日蓮は、天台宗において出家得度した僧侶であり、生涯その立場を貫いた。ただし、日蓮がもっとも関心を注いだのは、法華経にこそ釈迦の真実の教えが示されていることを明らかにし、それを否定する他の信仰が社会にはびこるのを阻止することであった。
したがって、日蓮は再三、彼の立場からは誤った仏法である「ほう法(ほうぼう)」の取り締まりを為政者に求めた。日蓮は、個人の救済ということには関心を向けず、現実の社会のあり方を変えることに活動の中心をおいた。そのため他の宗派とは異なり、日蓮宗の僧侶は、本来は日蓮のように社会を変えることに奔走しなければならないのである。(50〜51頁)
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田中智学の「法国冥合」と日蓮の「三大秘法抄」
智学がそうした考え方を明確にしたのが、「本化妙宗式目」と呼ばれる彼独自の教義の体系においてだった。42歳になった智学は、明治35(1902)年の8月から9月にかけて、鎌倉にあった書斎にこもり、一気にそれを完成させた。智学は、1年かけて、これを講義し、その講義録は、『本化妙宗式目講義録』全5巻にまとめられた。
そこで智学が強調したのが、「法国冥合(ほうこくみしうごう)」という考え方であった。この法国冥合ということばは、智学が独自に使ったもので、一般には、「王仏冥合(おうぶつみようこう)」と呼ばれることが多い。王仏とは、世俗の法である王法と釈迦の説いた仏法をさし、それが一つに融合されることが王仏冥合である。智学の法国冥合も、意味するところは同じである。
法国冥合も王仏冥合も、ともにその根拠は、日蓮の遺文、「三大秘法抄」に求められている。
この「三大秘法抄」は、「三大秘法稟承事(ぼんじようじ)」とも呼ばれ、弘安4(1281)年4月8日に甲斐国身延(みのぶ)で執筆されたとされている。このとき日蓮は60歳で、亡くなるのは翌年の10月13日のことであった。
「三大秘法抄」が執筆された時点で、日蓮はすでに病に苦しんでおり、まとまった理論的な文章を書けたとも思えないのだが、内容的にも、本当に日蓮の手になるものなのかどうか、日蓮の教えを学ぶ者たちのあいだでは昔から議論になってきた。
日蓮は、膨大な文章を残しているが、そのなかには、「真筆」、あるいは「真蹟」と呼ばれ、日蓮自筆のものが残っているものもあれば、写本でしか残っていないものもある。「三大秘法抄」は、写本でしか残っておらず、その写本も、15世紀はじめのものがもっとも古い。その時点ではすでに、日蓮が亡くなってから百数十年が経っていた。(52〜53頁)
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問題は、本門の戒壇である。戒壇というのは、一般的には、僧侶、あるいは尼僧に対して戒律を授けるための壇のことである。有名なものとしては、東大寺に設けられた戒壇がある。これは、奈良時代の終わりに唐から招かれた鑑真(がんじん)が来日してから設けられたものである。それまで、日本には正式に戒律を授ける資格をもつ「戒師」がいなかった。だからこそ鑑真が招かれたわけだが、同時に、下野薬師寺と太宰府観世音寺にも戒壇が設けられ、正式に僧侶になるためには、そうした戒壇で戒律を授かる制度が確立された。(54〜55頁)
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なにしろ舞台は、昭和初期の満州国に創設された建国大学だからである。建国大学は、実在の大学で、満州国の国政を司る満州国国務院直轄の国立大学であり、建大と略称された。創立は昭和13(1938)年5月で、満州国が崩壊した20年8月に閉鎖されている。建大が存続した期間は短いものの、総計で約1400名が在籍した。
『虹色のトロツキー』は、その建大に、日本人と蒙古人の混血であるウムボルトという青年が入学してくるところからはじまる。ウムボルトは、幼い頃に家族を虐殺された。おそらくはそれが原因なのだろう、過去の記憶を失ってしまっている。
物語の冒頭には、ウムボルトの家族が虐殺される場面が出てくるのだが、実は、彼は虐殺した犯人の顔を覚えている。その顔は、ロシアの革命家、レフ・トロツキーに似ているのだった。
『虹色のトロツキー』には、ウムボルトやその父親をはじめとする架空の人物が登場する一方で、関東軍参謀長で後の首相、東条英機や関東軍作戦参謀で建大の設立主任、辻政信(つじまさのぶ)、無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)などを殺害し、服役した後、満州映画協会理事長をつとめた甘粕正彦(あまかすまさひこ)、合気道の創始者で戦前に2度弾圧を受けた新宗教の大本の信者であり、建大で指導した植芝盛平(うえしばもりへい)、男装の麗人として名を馳せた川島芳子(かわしまよしこ)、そして歌手で女優の李香蘭(りこうらん)(戦後は山口淑子(やまぐちよしこ)として参議院議員をつとめた)など、興味深い実在の人物が数多く登場する。
しかし、物語のなかで、圧倒的な存在感を示しているのが石原莞爾である。石原は、何より満州事変の首謀者として知られている。石原は、柳条湖(りゆうじようこ)事件を起こして、日本が満州において軍事的に展開するきっかけを作り、関東軍主任参謀として関東軍が満州全土を瞬く間に制圧することに貢献した。建大は、実は、この石原の「アジア大学」構想がきっかけになっていた。(90〜91頁)
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石原の国柱会とのかかわりは、賢治よりもはるかに深かった。とくに石原は、国柱会を創立した田中智学の三男で、日本国体学会を創立した里見岸雄と深く交流していた。日本国体学会は現在も存続し、機関誌である『国体文化』の平成27年5月号では、「はじめに」でふれた三原じゅん子議員の八紘一宇発言を受けて、「八紘一宇を考える」という特集を組んでいる。
石原と、智学が唱えた日蓮主義との関係を示す1枚の写真が残されている。
昭和7(1932)年2月16日、奉天(現・藩陽)で、中華民国の政治家、軍人だった張景(ちようけい)、馬占山、蔵敷毅、煕洽(きこう)が集まって、東北行政委員会が発足する。そこには、日本側から、当時中佐だった石原のほかに、本庄繁(ほんじようしげる)関東軍司令官、板垣征四郎大佐、片倉衷(ただし)大尉なども出席していた。
そのときの記念写真が残されているわけだが、出席者が並ぶ右後ろには、「南無妙法蓮華経」
の題目を大書したものが掲げられていた。それは、日蓮に特徴的な書体である。2月16日は、その日蓮が誕生した日でもあった。これを用意したのは、間違いなく石原であろう。東北行政委員会は、満州の中国からの独立を実現し、満州国を樹立していくが、この写真には、その満州国と日蓮主義との深い関係が示唆されている。(94〜95頁)
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本多日生
日生については、大谷栄一の『近代日本の日蓮主義運動』が詳しい。日生は、旦連宗の一派である妙満寺派に属していて、教団の近代化をめざした。24歳(明治22年)の若さで教学部長に就任したものの、宗内の保守派と対立し、2年後には教学部長を罷免、さらにその翌年には僧籍まで剥奪される。
しかし、日生は、「顕本法華宗弘通所」を作って、そこを活動の拠点とする。宗派の内部でも、日生を復権させようとする動きが起こり、明治27年には僧籍を回復している。それ以降、日生は、仲間とともに結成した「妙宗統一団」を基盤に活動を展開する。この統一団には、妙満寺派の僧侶だけではなく、一般の檀信徒も参加し、雑誌の発行、演説会の開催などを行うが、その目的は、組織の名前が示しているように、日蓮門下の教団を統合し、さらには仏教界全体を統一することにあった。
日生は宗務総監に就任するが、妙満寺派は「顕本法華宗」と改称される。日生は、明治38年に、その顕本法華宗の管長に39歳の若さで就任している。智学が還俗し、在家の日蓮主義者として活動したのに対して、日生は、一貫して出家の立場から運動を展開した。
ただし、日蓮宗の場合には、浄土真宗ほどではないにしても、出家と在家の立場は接近して
いる。実際日生と智学は、さまざまな場面で協力して活動を展間し、盟友とも言える関係にあった。たとえば、明治35年4月には、「日蓮聖人開宗第650年記念大会」を共同開催している。
石原は、日生の『日蓮聖人の感激』を読んだだけではなく、その次の年、大正9年1月には、統一閣(とういつかく)におもむいて、日生による「社会改造と日蓮主義」という講演も聞いている。稲垣真美によれば、「明治末年から大正初年にかけて本多の講演は他宗派の学生も多くききに行き、工場などの巡回講演もして、専門の宗教学生には田中智学よりも評判が高かったそうである」
(『仏陀を背負いて街頭へ』岩波新書)という。第2章で、智学が弁舌の才に恵まれていたことについてふれたが、日生はそれ以上の才能を発揮したことになる。
しかし、日生が僧職にあったからか、石原はそれ以上、統一閣の運動には関心を示さなかった。2月になると石原は、神田の古書店で、樗牛の死後にその日蓮関係の文章を集めて刊行された『高山樗牛と日蓮上人』を買い、樗牛の説く日蓮の国家観に感銘を受けている。日記には、「其の当否は別として徹底的なること流石(さすが)は天才の人なり」(2月8日)と、樗牛の日蓮論を高く評価していた。
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三人の人物とは、小菅丹治、竹内久一(たけうちひさかず)、姉崎正治である。おそらく、多くの人はこれらの名前を聞いたことがないだろう。
そのなかで一番分かりやすいのが、小菅丹治である。小菅は、日本の代表的なデパートメントストア、伊勢丹の創業者である。伊勢丹は、小菅が明治19(1886)年、東京府神田区旅籠町2丁目4番地(現在の千代田区外神田-丁一5番)に伊勢屋丹治呉服店を開いたことにはじまる。昭和5(1930)年には株式会社伊勢丹を名乗るようになり、同8年には現在地の新宿に店を移している。
この小菅の智学との関係に注目したのが、人類学者の山口昌男である。山口は、『「敗者」の精神史』(岩波書店)のなかで、智学の三大弟子として、賢治、石原、小菅をあげ、この三人の名前がジで終わることから、「三ジ」と呼んでいる。
智学は、明治43年、静岡三保の松原に最勝閣を建て、そこに活動の拠点を移すが、そのとき、東京には住居がなく、活動に不便だった。そのため小菅は、芝公園内にあった自邸の敷地内に一屋を建て、それを智学の一家に提供した。小菅の邸宅は、もともとは伊藤博文が建てたもので、敷地の広さは550坪もあった。
さらに小菅は、「興隆会を設け、神田旅籠町にあった伊勢丹呉服店で、田中師の講演会を毎月一回開催し、多くの日蓮宗の信者があつまって聞いた。ちなみに、二代丹治も初代の信念をうけつぎ、初代の逝去の後も興隆会をつづけた」という(土屋喬雄『創業者小菅丹治』伊勢丹)。(116〜117頁)
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日蓮は、『立正安国論』のなかで、日本が正しい仏法を奉じなければ、海外の勢力から攻められる「他国侵逼難」が起こると警告し、のちの蒙古襲来を予言した形になったが、北はイギリスとドイツを蒙古になぞらえていた。『支那革命外史』の第20章は、「英独の元寇襲来」と題されており、そこでは、「しかして日米開戦に至らば白人の対日同盟軍と支那の恐怖的死力によりて日本の滅亡は一年を出でず。呆顔喪心支那の革命において策の建つる所なく、いたづらに欧洲大戦の決を待たはあるいは英露東侵の維新前に帰へりあるいはつひに英独提携の元寇襲来を見ん」という警告が発せられていた。イギリスとドイツの名が挙げられているのは、北が、この両国に中国やインドシナへの侵攻の意図があると推測していたからである。
そうした事態を踏まえ、北は、欧米の勢力に対して武力で対抗することを強く訴えている。
たとえば、「『殺すをたしなむ』ものにあらずんば悪を求むるの自由を斬つて正義の自由なる発現を擁護扶植するあたはず」という具合にである。
その際に、北は、「大乗」を戦闘的な宗教としてとらえ、それを、外敵に対して軟弱な姿勢を示す儒教やキリスト教と対比させている。北自身のことばでは、「夷狭の迫るものある時、民を率ゐて避くの儒教はあたかもモーゼの羊群と共に浪々たりし惰弱なるキリスト教のごとく、慈悲の為の折伏を教ふる仏の大乗はコーランと剣を持てるイスラム教もまた及ばざるごとし」
だというのである。
北は、『支那革命外史』の最後の部分では、「不肖はオゴデイ汗たるべき英雄を尋ねて鮮血のコーランを授けん」と述べ、法華経を鮮血のコーランととらえている。この時代には(それ以降もそうだが)、イスラム教がその成立当初、領土を拡張するための戦いに邁進したことから、「剣か、コーランか」を合言葉とする戦闘的な宗教であるというイメージが流布しており、北はそれを踏まえていた。
さらに北は、日英戦争といった形をとる世界大戦が、革命を誘発することになるとして、戦争を大地震にたとえて、「経文に大地震裂して地湧の菩薩の出現することを言ふ。大地震裂とは過ぐる世界大戦のごとき、来りつ、ある世界革命のごときこれである。地湧菩薩とは地下層に埋るる救主の群といふこと、すなはち在野の英雄下層階級の義傑偉人の義である」と述べている。ここで言われる地湧菩薩とは、法華経の「従地湧出品(じゆうじゆうじゆつほん)」に出てくるもので、北はそれを革命の戦士にたとえているわけである。(154〜155頁)
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侵略的な信仰と言うと、暴力によって信仰を広めるかのような印象を受けるが、智学は、侵略ということばの意味を広く使っており、「万物はすべて侵略なり」とまで言い切っている。
つまり、あらゆる存在は、その生存を維持する上において、他の存在を侵さざるを得ないわけで、その点で侵略が存在の本質としてとらえられているわけだ。その上で、「善侵略」と「悪侵略」が区別され、「法華経的侵略」は善侵略であるとされているのである。
さらに智学には、第2章でも述べたように、日蓮の『観心本尊抄』をもとに、天皇を「賢王」としてとらえる視点があった。智学は、日清戦争が勃発した際に、戦勝祈願をするための国祷会を営んでいるが、その際に読まれた「国祷発願疏」において、明治天皇を「世界無比ノ聖王」と讃えている。
松岡幹夫は、こうした智学の北に対する影響を指摘した上で、明治天皇信仰が確立されたことで、北において、八紘一宇の考え方に結びつく家族国家観が肯定されていったととらえている。たしかに、『支那革命外史』に続く『日本改造法案大綱』のなかで、北は、「日本国民の国家観は国家は有機的不可分なる一大家族なり」であると述べている(松岡『日蓮仏教の社会思想的展開−近代日本の宗教的イデオロギー』東京大学出版会)。
しかし、今引用したことばは、巻八の「国家の権利」に出ているものではあるが、そこにしか出てこない。北は『日本改造法案大綱』の全体を通じて、そのような考え方を述べているわ(157頁)
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これまでもふれてきたように、法華経には「不惜身命」ということばが出てくる。これは、信仰のためには自分の命も顧みないで捨てるということを意味する。実際、日蓮は、自らの主張を曲げることなく、数々の法難に遭ってきた。この不惜身命の考え方は、藤井の主張と重なりあうものがあり、やがて井上もそれを受け入れていく。
事件を起こす2年前の昭和5年8月29日に上京したときに、井上は、「私達が峰火(のろし)を挙げ、それによつて指導階級の覚醒を促し彼等の手によつて改造が第一段階梯に踏み上れば最初は勿論極めて不徹底なものにきまつて居るが続いて第二、第三段と転開して行くのは極めて容易な事である」という認識に達していた。そして、「よし、さうだ藤井の言ふ通り死ねばよいのだ、大死一番だ!」と、暗殺という手段を受け入れる(『血盟団事件上申書、獄中手記』)。
起爆剤になりさえすれば、後は自動的に改造が続いていくというのは、見通しとして随分と甘いようにも見える。自分が死ねば、すべてはうまくいくという考え方も、あまりに自己中心的すぎる。
しかし、現実には、血盟団事件に続き、五・一五事件が起こり、それはさらに二・二六事件へと発展していったのだから、井上の考えたとおりにことは進んでいったとも言える。
さらに、もう一つ、血盟団に加わってきた別のグループがあった。それが、東京帝国大学と京都帝国大学の帝大生たちであった。軍の将校たちもエリートであったが、彼らもエリートであり、当初護国堂へ集まってきた人間たちとは社会階層がまったく異なっていた。
小沼は、農家の出身で、高等小学校も卒業しておらず、職人の見習いなどにしかなれなかった。菱沼も農家の出身で、岩倉鉄道学校を卒業しているものの、目の病気で就職ができなかった。彼らは、決してエリートとは言えない人間たちだった。
帝大生の中心にあったのは、戦後政界の黒幕となり、歴代の総理の指南役ともなる四元義隆だった。
四元は、鹿児島の出身で、地元の七高に進学するが、そこでやはり血盟団に加わる池袋正釟郎と知り合い、仲間を募って、「敬天会」という、日本精神の発揚などを目的とした修養団体を結成する。(178〜179頁)
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いったい、菱沼が言う「神秘的暗殺」がいかなるものなのかは、これだけでは判然としない。
ただ、団を暗殺することによって、自己の存在を明確に意識化し、それに伴って他者を他者として認識したのだとすれば、そこには菱沼の自己実現の過程が伴ったことになる。
日蓮の教えのなかでは、法華経の中核には、天台智 いったい、菱沼が言う「神秘的暗殺」がいかなるものなのかは、これだけでは判然としない。
ただ、団を暗殺することによって、自己の存在を明確に意識化し、それに伴って他者を他者として認識したのだとすれば、そこには菱沼の自己実現の過程が伴ったことになる。
日蓮の教えのなかでは、法華経の中核には、天台智 いったい、菱沼が言う「神秘的暗殺」がいかなるものなのかは、これだけでは判然としない。
ただ、団を暗殺することによって、自己の存在を明確に意識化し、それに伴って他者を他者として認識したのだとすれば、そこには菱沼の自己実現の過程が伴ったことになる。
日蓮の教えのなかでは、法華経の中核には、天台智顕が述べた「一念三千」や「十界互具(じつかいこぐ)」
の考え方があるとされた。一念三千は、私たちの一念のなかに三千大千世界がそのまま含まれているというもので、十界互具も、それぞれの世界には地獄界から菩薩界まですべての世界が備わっているという考え方である。あるいは、菱沼は、暗殺の瞬間に、この日蓮が説いた世界を体験したのかもしれない。
法華経を読み題目を唱えるという行為は、それを実践する者を悦惚とした境地に導いていく。
菱沼は、暗殺を通してそうした状態を経験していった。果たしてそれが、他の暗殺者に起こることなのかどうかは分からないが、それによって暗殺という行為には宗教的な意味が与えられたことになる。
血盟団と呼ばれた井上を中心としたテロリストのネットワークは、血盟団事件によって解体され、実行犯や井上などは獄につながれることになる。しかし、すでに述べたように、刑自体が軽かった上に、恩赦によって皆出獄しており、彼らは太平洋戦争直前の日本社会に立ち戻っていった。
四元が、政界の黒幕として戦後に活躍したことについてはすでにふれたが、井上も、「護国団」という団体を結成して活動を続けた。小沼も、業界公論社という出版社をやりながら、右翼活動を続けた。菱沼になると、小幡五朗と改名し、茨城県議会議員となって県議会議長までつとめた。テロリストは、戦後の日本社会に受け入れられたのである(本章については、中島岳志『血盟団事件』〈文藝春秋〉、堀真清『西田税と日本ファシズム運動』〈岩波書店〉も参考にした)。顕が述べた「一念三千」や「十界互具(じつかいこぐ)」
の考え方があるとされた。一念三千は、私たちの一念のなかに三千大千世界がそのまま含まれているというもので、十界互具も、それぞれの世界には地獄界から菩薩界まですべての世界が備わっているという考え方である。あるいは、菱沼は、暗殺の瞬間に、この日蓮が説いた世界を体験したのかもしれない。
法華経を読み題目を唱えるという行為は、それを実践する者を悦惚とした境地に導いていく。
菱沼は、暗殺を通してそうした状態を経験していった。果たしてそれが、他の暗殺者に起こることなのかどうかは分からないが、それによって暗殺という行為には宗教的な意味が与えられたことになる。
血盟団と呼ばれた井上を中心としたテロリストのネットワークは、血盟団事件によって解体され、実行犯や井上などは獄につながれることになる。しかし、すでに述べたように、刑自体が軽かった上に、恩赦によって皆出獄しており、彼らは太平洋戦争直前の日本社会に立ち戻っていった。
四元が、政界の黒幕として戦後に活躍したことについてはすでにふれたが、井上も、「護国団」という団体を結成して活動を続けた。小沼も、業界公論社という出版社をやりながら、右翼活動を続けた。菱沼になると、小幡五朗と改名し、茨城県議会議員となって県議会議長までつとめた。テロリストは、戦後の日本社会に受け入れられたのである(本章については、中島岳志『血盟団事件』〈文藝春秋〉、堀真清『西田税と日本ファシズム運動』〈岩波書店〉も参考にした)。顕が述べた「一念三千」や「十界互具(じつかいこぐ)」
の考え方があるとされた。一念三千は、私たちの一念のなかに三千大千世界がそのまま含まれているというもので、十界互具も、それぞれの世界には地獄界から菩薩界まですべての世界が備わっているという考え方である。あるいは、菱沼は、暗殺の瞬間に、この日蓮が説いた世界を体験したのかもしれない。
法華経を読み題目を唱えるという行為は、それを実践する者を悦惚とした境地に導いていく。
菱沼は、暗殺を通してそうした状態を経験していった。果たしてそれが、他の暗殺者に起こることなのかどうかは分からないが、それによって暗殺という行為には宗教的な意味が与えられたことになる。
血盟団と呼ばれた井上を中心としたテロリストのネットワークは、血盟団事件によって解体され、実行犯や井上などは獄につながれることになる。しかし、すでに述べたように、刑自体が軽かった上に、恩赦によって皆出獄しており、彼らは太平洋戦争直前の日本社会に立ち戻っていった。
四元が、政界の黒幕として戦後に活躍したことについてはすでにふれたが、井上も、「護国団」という団体を結成して活動を続けた。小沼も、業界公論社という出版社をやりながら、右翼活動を続けた。菱沼になると、小幡五朗と改名し、茨城県議会議員となって県議会議長までつとめた。テロリストは、戦後の日本社会に受け入れられたのである(本章については、中島岳志『血盟団事件』〈文藝春秋〉、堀真清『西田税と日本ファシズム運動』〈岩波書店〉も参考にした)。(182〜183頁)
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これまでもふれてきたように、法華経には「不惜身命」ということばが出てくる。これは、信仰のためには自分の命も顧みないで捨てるということを意味する。実際、日蓮は、自らの主張を曲げることなく、数々の法難に遭ってきた。この不惜身命の考え方は、藤井の主張と重なりあうものがあり、やがて井上もそれを受け入れていく。
事件を起こす2年前の昭和5年8月29日に上京したときに、井上は、「私達が峰火(のろし)を挙げ、それによつて指導階級の覚醒を促し彼等の手によつて改造が第一段階梯に踏み上れば最初は勿論極めて不徹底なものにきまつて居るが続いて第二、第三段と転開して行くのは極めて容易な事である」という認識に達していた。そして、「よし、さうだ藤井の言ふ通り死ねばよいのだ、大死一番だ!」と、暗殺という手段を受け入れる(『血盟団事件上申書、獄中手記』)。
起爆剤になりさえすれば、後は自動的に改造が続いていくというのは、見通しとして随分と甘いようにも見える。自分が死ねば、すべてはうまくいくという考え方も、あまりに自己中心的すぎる。
しかし、現実には、血盟団事件に続き、五・一五事件が起こり、それはさらに二・二六事件へと発展していったのだから、井上の考えたとおりにことは進んでいったとも言える。
さらに、もう一つ、血盟団に加わってきた別のグループがあった。それが、東京帝国大学と京都帝国大学の帝大生たちであった。軍の将校たちもエリートであったが、彼らもエリートであり、当初護国堂へ集まってきた人間たちとは社会階層がまったく異なっていた。
小沼は、農家の出身で、高等小学校も卒業しておらず、職人の見習いなどにしかなれなかった。菱沼も農家の出身で、岩倉鉄道学校を卒業しているものの、目の病気で就職ができなかった。彼らは、決してエリートとは言えない人間たちだった。
帝大生の中心にあったのは、戦後政界の黒幕となり、歴代の総理の指南役ともなる四元義隆だった。
四元は、鹿児島の出身で、地元の七高に進学するが、そこでやはり血盟団に加わる池袋正釟郎と知り合い、仲間を募って、「敬天会」という、日本精神の発揚などを目的とした修養団体を結成する。(186〜187頁)
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