きょうこの頃



2018年8月12日(日)



 機上で地図を見ているうちに、博多湾を西から抱いている寸足らずの半島〔糸島半島)に「蒙古塚」という小さな活字が入っているのを知った。
「とりあえず、ここへ行きましょう」
 と、隣席の編集部のHさんに地図を見せた。Hさんは近眼鏡をひたいにずりあげて、地図に顔を寄せた。その場所は糸島半亮の東岸にあり、漁岸は砂.浜で、砂浜の東端に毘沙門山(びしやもんやま)という一七七メートルの山が小さく盛りあがっている。
「蒙古塚……」
 Hさんは、くびをかしげた。
「聞いたことがありませんか」
「ありません.なし
 この人は、かつて小倉で勤務したことがある。九州にはくわしいはずだが、知らないという。私も十皿、六年前、博多湾沿岸の元寇遺跡はくまなく歩いたつもりでいるが、そういう存在どころか、名称さえ知らない。
 江戸期には、福岡から唐津までの国道202号を「唐津街道」とよんでいた。われわれはこの旅の第一日をその街道を経て唐津までゆくことですごすつもりでいるが、地図によれば「蒙古塚」というのは街道沿いの今宿(いまじゅく)から右へ入って一〇キロも行けば所在するらしく、大した寄り道にはならない。(12〜13頁)

  掠奪民族は、商品の良否につよい関心をもつ。この点、商業民族も、同然である。色口人たちは商品について世界的な規模での情報をもっている。モンゴル人にとって、商品情報を教えてくれるのは漢民族ではなく、色目人であった。また、どの土地のどういう商品が良質であるかを教えてくれるのも、広域貿易の専門家である色口人であった。かれらを優遇して行政上の重職にっかせただけでなく、一般の色旧人でも、漢人との関係では法律上、全員が貴族的といっていいような最恵の待遇があたえられた。
 モンゴル人は、自分の文化が誇るに足るほどに空っぽであるために、他文化(とくに技術文化)の摂取には先入主のさまたげをうけなかった。その傾向は軍事においていちじるしかった。
 かれらは固有の経騎兵の密集隊形を駆使しぬいてユーラシア大陸を席捲したが、しかし騎兵の集団運用が地理的に適しがたい日本を攻める場合、平然と歩兵主義をとった。重武装した歩兵を密集的に運用する方法は、漢民族の伝統にある。モンゴル人は臆面もなくそれを採用した。従って博多湾に上陸した尤の大軍はかつてヨーロッパに攻め入った騎兵軍ではなく、歩兵軍であった。ただ指揮官たちだけが馬に乗っていた。このあたりにモンゴル人の思考法が生きて動いているといっていい。
 武器は、中凶をふくめたユーラシァ大陸という広域規模の中から、よりどりで採用した強力かつ新奇なものをそろえていた。たとえば、鎌倉武士の頭上でさかんに炸裂した震天雷(しんてんらい)という投榔(とうてき)爆弾もそうであった.鋳鉄もしくは陶製の器の中に火薬を詰め、導火線に火をつけて敵にむかって投げつける兵器で、当時としては他に比類のない殺傷力をもっていた"火薬の発見がどの民族によるのか諸説のあるところだが(おそらく西アジアで発明されたのであろう)それが兵器として使用された記録上の最初は、中園においてであった.この第一次元寇から四十四年前、モンゴル軍が金の都のべん京(べんきよう)を囲んだときで、金軍がこれを使用した。それをその後、モンゴル軍が採用し、むしろかれらのお得意の兵器になった。(16〜17頁)

  ……どうも日本人には、その(防衛についての)義務の観念が薄いようである。その一例を挙げてみれば、私は或る時、長崎の一商人に、 一体この町の住民は、長崎が脅(おび)やかされた時に、果たして町を防衛できるかどうかと尋ねてみたが、その商人の曰く「何のそんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事なんだ」という返事だった、


 ヨーロッパの歴史は、日本の戦国期の割拠状態のような攻伐を相互にごく最近までつづけてきた。この連中からみれば、極東の島国である日本は、外国から攻伐をうけたことなどほとんどなく、その点、夢のような国である。夢のような国には夢のような防術思想があってもよく、右の文章のなかの「商人」は、ふしぎでもなんでもない。
 日本という歴史地製的環境にあっては、本来、防衛ということがわかりにくい。明治後、外国の軍隊思想による軍隊をもったために持ち方がわからなくて戦争ばかりしてきた。軍隊が防術のためにあるというヨーロソバ風の考えはそれなりの歴史から出ているわけで、歴史的にそれがわかりにくい日本にあっては、うかつに大きな軍事力をもつと持ちあぐねて気を狂わせ、つい凶器として使ってしまうというところが、近代"本にあった。ヨーロッパ人にとってはただの防衛力にすぎないものが、口本人にとっては気狂いのもとになりかねないのである。
 そのくせ、日本人なら、このオランダ塀の場合、板塀か生垣ぐらいで済ませるであろう、海上から艦載砲の砲弾が飛んでくるなどということは想像もしないし、たとえ想像できたとしても、そのときはそのときでお上(かみ)が何とかしてくれるだろうと思ってしまう。それが、健康な常識的日木人というもので、なまじい防衛の危機意識を煽ったりすれば私どもの民族はかえって気狂いしてしまい、自他を傷つける、ともかくも、この頑丈な塀のことだが、幕末のカッテンディーケの感覚から推して考えても、この塀は、目隠しという日本的な優美なものではなく、防衛そのものが目約であったにちがいない。(72〜73頁) 

  が、松浦道可も、その子の鎮信(しげのぶ)も、切支丹には入信しなかった。
 このことはすでに触れた。この当時の亘教師側は大名そのひとを入信させることに執拗.で、ひとたび大名を入信させると、豊後の.大友宗麟の場合がそうであったように、領内の神社仏閣というものを一つのこらず打ちこわさせるのである。異教徒退治こそ絶対の正義であると信じ、苛烈にその絶対的正義を実行したこの当時の力トリックの宣教師としては、悪魔の巣窟ともいうべき神社仏閣をことごとく潰減させるなどは、布教の序の臼ともいうべきものであった。もしこの当時、大和の国に統一大名がいたとして(夷際にはいなかワたのだが)さらにはその人物が入信したとすれば、こんにち、大和路に法隆寺などはなく、東大寺も浄瑠璃寺も薬師寺も存在しない、という結果になっていたにちがいない。
 当時も、仏教徒あるいは守旧的気分の人物がー当然のことだがーいた。かれらに恐慌をまきおこすような戦略を、当時の宣教師たちがなぜとったのか、かれらのために惜しいような気がする。西洋の近代以前の入間というのは、良心と知性の水位が高ければ高いほど、正義を絶対化したがる傾向がつよかった。二のことは、当時のカトリックの海外布教の性格や、あるいは宣教師たちの個性に帰せられるべきものではなく、要するに人間の精神史の段階として、この当時、そういうぐあいだったのであろう。
 松浦道可が、宣教師たちからどうすすめられても入信しなかったのは、そのへんの事情もあってのことだったにちがいない。戦国期の大名が絶対権力の上に成立しているとみるのは、後世の者がおち入りがちな迷信の一つである、かれらは本来、敵ともいうべき諸勢力をもふくめての微妙な力学的均衡の上に成立している。平戸松浦家も、その典型のひとつであり、松浦家当主の政治判断はつねに盟下の諸勢力の利害や思惑を考えた上ではじき出されていた。松浦道可が入信するとする。となれば、仏教に帰依している盟下諸勢力がどういう反応を示すか、油断もすきもないという危倶が、当然ながらあった。宣教師たちはそういう配慮をせず、「貿易の利を啖って入信する以上はわれわれを教窓とし、宗教行政についてはわれわれの命ずるままに行え」というぐあいに強要した。松浦道.司が、再尻強制されても入信することから逃げつづけたのもむりはなかった。
 が、逃げ切れず、ついに「籠手田(こてだ)左衛門、一部勘解由(かげゆ)両人を名代として、葡人の宗門にぞなされける」(『壺陽録」)というぐあいになったことは、すでにふれた.ところがそのあと、籠手田らの家士や領民、またはポルトガル貿易に関係のある町民ら干余人が入信するさわぎになった。かれらが徒党を組んで仏寺を襲い、その仏像をほうりだして火中に投じたり、海に投じたりした。
 それに対抗して、仏寺を擁護する者が党を紐み、たがいに平戸で抗争したが、松浦道可はこれ(120〜121頁)


  • 文庫: 202ページ
  • 出版社: 朝日新聞社 (1983/2/1)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4022601817
  • ISBN-13: 978-4022601810
  • 発売日: 1983/2/1
  • 梱包サイズ: 15 x 10.6 x 1 cm
街道をゆく (11) (朝日文庫) 文庫  1983/2/1
司馬 遼太郎 (著)

『街道をゆく』(かいどうをゆく)は、司馬遼太郎による、読み切りでの紀行集。1971年(昭和46年)作者47歳の時に「週刊朝日」で連載開始、1996年(平成8年)2月に急逝したことで、43冊目の『濃尾参州記』で絶筆(未完)となった。





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