きょうこの頃



2016年9月24日(土)

 内田樹『街場の現代思想』読了。

 ブログ:http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2016/09/post-5b44.html

「文化資本」という槻念を使って社会理論を構築したのが、フランスの社会学者ピエール・ブルデューである。
 どうしてフランスで「文化資本」ということばが社会理論の道具として有用であったかというと、そこにはそれなりの歴史的事情がある。
 それはフランスが「階層社会」だからである。
「階層」(couche)と「階級」(classe)は似ているようだが、微妙に違う。
「階級」というのはマルクス主義の概念であり、「階級意識」の主体的獲得と同時に歴史的に登場する。主体の側の積極的参与がない限り、「階級」というものは存在しない。
「私は階級社会に生きており、私のものの考え方や感じ方やふるまい方は、階級的に規定されている」ということに「気がついた」人間の目にだけ「階級」は見え、そういうふうな考え方をしない人間の目には見えない。ただ「ビンボー」であれば、「プロレタリア的階級意識」を持てるというものではないのである。
 だから、社会の最下層にあって、現に苛烈に収奪されていながら、ナポレオン三世のブルジョワ独裁を熱狂的に支持した貧民たちは「ルンペン・プロレタリアート」と呼ばれてマルクスの罵倒を浴びることになったのである。
「階級」は「階級的自覚に目覚めたもの」が主体的に構築してゆくものである。
 それに対して「階層」というのは、本人がどう思おうと、ご本人の自己決定や努力とはかかわりなしに、リアルかつクールに「もう、すでに、そこに」存在する。
 ある人間がどの「階層」に所属するのかということは、本人によっては決定することができない。気がついたら「そこにいた」のであり、個人的努力ではめったなことでは「そこから抜け出せない」のが「階層」である。
 フランスは「階級」社会ではないが、「階層」社会である。そして、階層と階層の間には乗り越えることのできない「壁」がある。その「壁」は社会的地位や資産や権力や情報や学歴など、多様な要素によって構成されているが、ある階層に属する人間と別の階層に属する人間を決定的に隔てているのは「文化資本」(capital culturel)の格差である。
(p.20-21)

 私はふと「ランティエ」という言葉を思い出した。
 rentierとは「(主に国債による)金利生活者」のことである。
 ご存じのとおり、ヨーロッパの家は石造りで、人々はそこで祖先から受け継いだ家具什器(じゅうき)をそのまま使って暮らしている。
 そして、あまり知られていないことであるが、ヨーロッパではデカルトの時代から一九一四年まで、貨幣価値がほとんど変わらなかった。
 ということは、先祖の誰かが小金を貯めて、それでアパルトマンと国債を買って遺産として残すと、相続人は(贅沢さえ言わなければ)生涯無為徒食することができたのである。
 そういう人々がフランスだけで何十万人か存在した。
[『彼方』のデ・ゼルミーや、『モルグ街の殺人』のオーギュスト・デュパンはこの類(たぐい)である。
 仕事をしないでひねもす肘掛け椅子で妄想に耽(ふけ)っているという点ではシャーロック・ホームズだってそうだし、本邦でも探偵は明智小五郎にしても金田一耕助にしても「高等遊民」と相場が決まっている。
 なにしろ、彼らは暇である。
 しかたがないので、本を読んだり、散歩をしたり、劇場やサロンを訪れたり、哲学や芸術を論じたり、殺人事件の犯人を推理したりして生涯を終えるのである。
 もちろん結婚なんかしない。
 せいぜい同性の友人とルームシェアするくらいである(ホームズはワトソンくんと、デュパンは「私」と、明智小五郎は小林少年と)。
 しかるに、このランティエたちこそヨーロッパにおける近代文化の創造者であり、批評者であり、享受者だったのである。
 それも当然である。
 新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆくとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのような冒険に嬉々としてつきあう人間は、「扶養家族がいない」「定職 がないし「好奇心が強い」「教養がある」などの条件をクリアーしなければならない。
「ねえ、来週から北極に犬櫨(いぬぞり)で出かけるんだけど、隊員が一入足りないんだ」
「あ、オレいく」
 というようなことがすらっと言える人間はなかなかいない。
 ブルジョワジーは金儲けに忙しく、労働者たちはその日暮らしと革命の準備で、そんな「お遊び」につきあっている暇はない。
 結局、ヨーロッパ近代における最良の「冒険」的企図と「文化」的な創造を担ったのは、かのランティエたちだったのである。
 残念ながら、ヨーロッパ文化の創造的なケルンを構成していたこの遊民たちは一九一四1一八年の第一次世界大戦によって社会階層としては消滅した。
 インフレのせいで金利では生活できなくなってしまったからである。
 彼らはやむなく「サラリーマン」というものになり、そんなふうにして、世界からホームズもデュパンも明智小五郎も消えてしまったのである。
 私はこれをたいへんに惜しいことだと思っている。
 哲学的営為とか芸術的創造というのは、単純な話、肘掛け椅子にすわってじっと沈思黙考しても、寝食を忘れてアトリエにこもっていても、誰からも文句をいわれないし飢え死にもしない、というごくごく散文的な条件を必要とするものである。
 営業マンをやりながら哲学論争を展開するとか、トラック運転手をしながら芸術運動を組織するというようなことが不可能なのは、適性の問題もあるが、主として「時間がない」からである。
「ありあまる時間と小金の欠如」というきわめて散文的な理由がそれらの人々に「ランティエ」的生き方を禁じている。
 それこそが現代の文化的衰退の大きな原因であることはどなたにもお分かりいただけるであろう。
 ところが。
 ここに「負け犬」という新しい社会階層が登場したのである。
 その表層的なあり方があまりにかつてのランティエと違っているために、私はそれに気づかなかったのであるが、E田くんに指摘されて「はっ」と胸を衝(つ)かれた。
「負け犬」は二】世紀日本が生み出した新しい「ランティエ」(女性だから「ランティエール」だね)ではないのだろうか。
 彼女たちは「パラサイト」であるか一人暮らしか、同性の友人とルームシェアしているか、とにかく「扶養家族」というものに縛られていない。
(p.62-65)

「敬する」というのは、別に「自分より力のあるもの」に「何かよいもの」を贈ることではない。自分が傷つかないために「身をよじらせて」攻撃を避けることだ。そのためには、自分より力のある相手とは決して、直接向き合わないことが必要だ。
 してはいけないことは、そういう相手に「素」で立ち向かうことである。自分の「本音」や「素顔」をさらすことは自己防衛上最低の選択である。
「敬語を使って話す」というのは、神社仏閣や墓石の前を通りすがるとき「とりあえず手を合わせる」とか、熱い鍋のふたを取るときに「とりあえず手袋をはめる」とかいうのと、本質的には同じ身ぶりである。危ないものにじかに触れてはならない。
 だから、局面によっては、「自分の思いを、自分の言葉で話す」ということ、あるいは「自分がほんとうは何ものであるか」を告げることを私たちは避けなければならない。
そういうことばはもっと親密な相手のために取っておけばいい。
 岡野玲子の『陰陽師』の第一巻で、これに関するなかなか含蓄(がんちく)深いエピソードが語られる。羅生門に巣くう鬼から琵琶の名器玄象(げんじよう)を取り返しに行った安倍晴明(せいめい)と源博雅(ひろまさ)は、鬼に「名前を尋ねられる」。博雅は尋ねに応じて素直に「源博雅だ」と名乗るが、晴明は「正成(まさしげ)」という偽名を答える。翌日、羅生門に鬼退治に赴いた一行に向かって鬼は「動くな博雅」「動くな正成」と告げる。博雅はそのまま凝固してしまうが、晴明はするすると近づいて鬼を斬り殺す。
「おぬしは不用意に本名をあかしてホイホイ返事をするから呪(しゆ)にかかるのだよ、博雅」
と晴明は笑う。
 その前段で、固有名とは「呪」である、と晴明は説いている。
「山とか、海とか、樹とか、草とか、そういう名も呪のひとつだ。呪とはようするにものを縛ることよ。たとえばおぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる」
 あらゆる存在はその固有名において呪縛される。だから、王朝時代、男女は一夜をともにしたあとにはじめてその本名を明かした。それはうかつな人間には、決して「素」
の自分を見せないという生存戦略を裏返した「あなたに私を呪縛し、傷つけ、損なう権利を委ねる」という、ある意味では壮絶な決断のしるしとして贈られたのである。
 鬼神に向かったときに「本名をあかしてホイホイ返事をしてはならない」。それが「鬼神は敬してこれを遠ざく」ということである。だから、権力を持っている人間に対しては、「敬語」を使う。けっして「ふだんの自分のことば」では話さない。それは、激しくぶつかるものに対しては「緩衝材」をあてがい、熱い金属や冷たい雪には「手袋」をはめて触れるというのと同じことだ。そのような「道具」の使い方が上手な人は、
(p.83-85)

 だから、「まず」商品があって、それを効率的に交換するために貨幣ができたというふうに考えてはならない。順序が逆なのだ。
「まず」貨幣があり、そのおかげで大福とかBMWとかいう「商品」を人間は作り出すようになったのだ。
 これがお金について考えるときの基本だ。
 人間は「もの」ではなく、まず「お金」を作り出した。
 何かをたくさん作りすぎて、それが余ったから、足りないものと交換に出したのではない(社会科の教科書にはそう書いてあったかもしれないけれど、それは嘘だ)。お金ができたせいで、何かをたくさん作って、余らせるということができるようになったの
だ。
「交換」というのはコミュニケーションのことだ。「ことば」を交換すれば、それは言語活動になる。「女」を交換すれば、それは親族組織になる。「財貨サービス」を交換すれば、それは経済活動になる。人間と他の動物を区別する標識は人間がこの三つの水準で交換を行うということであり、ただそれだけだ。ことばを交わし、愛を交わし、お金をやりとりするもの。それが「人間」の定義である(私が言っているのではない。レヴィ=ストロースがそう言っているのである)
 だから、お金はたいせつだ。
 お金は交換のためにある。それが何のためにあるのかを忘れて、カメに詰めて床下に埋めたり、定期預金の残高を眺めて薄笑いしたりするのは、お金の扱い方として、あまり賢いやり方とは言えない。
 お金は交換のために、コミュニケーションのためにある。人間と人間がコミュニケーションするために、人間と人間を結びつけるために、人間が何かを作り出す「気にさせる」ために、「お金」は存在する。お金があればこそ、人間は「自分はいったい、どんな『余分なもの』を作り出せるのだろう?」というふうに考えることになる。自分の才
(p.92-93)

 私が何ものであるかは、私が作り出したもの、それが社会的ネットワークにおいて持つ意味と価値によって決まる(マルクスは、それを「労働」と呼んだ)。
 労働以前においては私は「何ものでもない」。
 モーリス・ブランショは作家についてこう書いている。
 「作家はその作品を通じて、自分を発見し、自分を実現する。作品以前において、作 家は自分が誰であるかを知らないし、現に何ものでもない。作家は作品を始点にして 存在し始める」
 この文章の中の「作家」を「人間」に、「作品」を「労働」に書き換えて読んでみようつ。
 「人間はその労働を通じて、自分を発見し、自分を実現する。労働以前において、人 間は自分が誰であるかを知らないし、現に何ものでもない。人間は労働を始点にして 存在し始める」
 お金は私たちを労働へ差し向ける。お金は私たちが「何かを作り出す」きっかけをつくる最初の「一撃」だ。お金が存在したせいで、交換が始まり、商品が作られ、そして、その結果、私たちは労働を介して自分が何ものであるかを知ることができるようになった。
 人間は商品ではなく、まず貨幣を作り出した。貨幣のおかげで商品が発生し、交換が始まった。そして最後に、「交換をするもの」として「人間」が誕生した。ご覧のとおり、人間と貨幣と商品と交換はループをなしている。だから厳密に言えば「人間が貨幣を作り出した」というのは不正確な言い方なのだ。
 だって、貨幣以前に「人間」は存在しなかったんだからね。
(p.94-95)





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