きょうこの頃
2016年8月21日(日)
三浦綾子『母』読了。
読み始めたら一挙に読み終えてしまった。
小林多喜二の生涯を母親が語る。
ブログ参照
;http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2016/08/post-3969.html
拓銀はバブル崩壊後に潰れてしまったが、戦前、それまでは北海道の“大樹”だった。
それはそうと、末松つあんが大正十三年の八月に死んだ話は、もうしましたね。脱腸の手術なんかで死ぬとは、夢にも思わんかった。多喜二が高商卒業して、そ分年の三月から拓銀に勤めることになった。わだしらは銀行なんて、「生縁のない所だと思っていたども、多喜二が勤めたということで、末松つあんと二人で、「度だけ拓銀の前に行ってみた。六月だったべか、暑い日だった。石造りの立派な建物に、二人共びっくらこいて、
「へえー」
「へえー」
と言うばかり。あん時、末松つあん喜んだ。
「もう一生、多喜二は食うのに心配はない。寄らば大樹の陰だ、寄らば大樹の陰だ」
って、くり返し言っていた。帰りに二人で氷水屋さ入ってね、氷水ば食べた。氷水食べる間も末松つあんは、
「いや、ありがてえ、ありがてえ」
(81頁)
の行ってる教会の、近藤牧師さんがひょっこり入ってこられたことがあった。
あん時はお客さんが十七、八人も来ていたべか。みんな多喜二のこと夢中になって話してたども、近藤先生は頭ば垂れて、じっとみんなの話ば聞いていた。時々大きくうなずきながら聞いていた。その日もぼた餅作ってみんなに食べてもらったども、近藤先生はぼた餅食べてからわだしの傍に寄って来て言った。
「お母さん、ぼた餅がおいしかったと言っては、多喜二さんに申し訳がない気がするけど、お母さんの深い気持ちのこもったぼた餅の味、忘れませんよ」
って言ってね。わだしびっくりした。ぼた餅食べて、そんなこと言った人なかったからね。
そん時の近藤先生の、わだしをじっと見つめた目が、何ともあたたかくてね……。よく、昔から「目は口ほどにものを言う」っていうべさ。ほんとにあの先生の目は、あったかいもんなあ。
わだしはただの一度で、近藤先生が好ましくなった。
あれから先生、朝里のこの遠い家まで時々訪ねて来て下さるの。別段神さまの話するわけではなかったども、両手を胸に組んで、じーっと窓から海ば見て、
「しける海と、なぎる海と、どっちが本当の海のかおですかね」
なんて……爵ったりしたの。多喜二もいつかおんなじことを言ったことがある。そう言ったらぼ、「それは光栄ですなあ」
って、にっこり笑ってな、近藤先生って、ほんとに味のある先生だこと。わだしは、神も仏もあるもんか、という気持ちがまだどこかに残ってて、死なれて十年以上も経った頃なのに、何としても多喜一一がほんとに悪いのか、殺した警察がわるいのか、はっきり言ってくれる神さんがいないもんか、っていう思いが胸の中で、たまらんほど強くなることがあった。そんなこと牧師さんにぼつらぽつら言ったら、牧師さんしきりにうなずいて、
「そりゃあ、そう思うの当然です」
つて言うの。
雪がとけて、あったかくなって、チマにつれられて、教会にも顔ば出すようになった。
「多喜二のお母さんが来た」
「多喜二のお母さんが来られた」
って、みんな傍に寄ってくれてね、ありがたいような、妙に淋(さび)しいような気持ちがしたもんだ。
けどなあ、正直な話、教会ってところは、わだしには向かないんだね。何かというと、
「聖書をおひらき下さい」
とか、
「讃美歌何番おひらき下さい」
って言うんだもね。字の読めないわだしは、どうやって聖書読んだらいいもんだか。その点お寺だと、いちいちお経ひらかんでも、寺の坊さんはわかるように語ってくれる。
(184〜185頁)
母
平成四年三月十目初版発行
著 者 三浦綾子
発行者 角川春樹
印刷所 図書印刷株式会社
製本所 株式会社鈴木製本所
発行所 株式会社角川書店
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