きょうこの頃



2015年12月30日(水)

 スザンナ・タマーロ『心のおもむくままに』読了。
 あっという間に読み終えてしまった。
 80歳の女性の独白のみ。
 が
 読ませる。

 ブログ参照:http://kohkaz.cocolog-nifty.com/monoyomi/2015/12/post-4911.html

てあつめた。その結果、もう数年前から医者がイラリアに強い向精神薬をあたえていたことがわかった。治療の最中に彼女が落ちこんだりすると、ウイスキーまで飲ませていた。することといったら、彼女はいちばんの弟子で才能もあるから、まもなく自立して、こんどは彼女が人を治療する診療所をもてるだろうと吹きこむくらいなものだった。こんなことを書くだけで、いまでも身震いしたくなる。イラリアが足もともおぼつかず、めちゃくちゃで、自分の核がこれっぽっちもないというのに、もうじき他人の病気を治せるなんて、そんなこと考えられるかい。あのときしくじっていなかったら、わたしになにも言わずに、彼女のボスと同じやり方で、実際はじめていたかもしれないのだよ。
 もちろん彼女は、そんなもくろみについてわたしにはっきり話したことなど一度もなかった。文学部を卒業したのにどうしてそれを少しも生かさないのかときくと、うす笑いを浮かべて言った。「そのうちに生かすわよ……」
 考えただけで胃が痛くなりそうなことがいっぱいある。それを書こうとすれば、骨折りもひととおりでない。その尋常でない時期に、わたしには彼女のことがひとつわかった。それまで思いもしなかったことで、おまえに言ってよいのかもわからない。とにかくなにも隠さないことにしたのだから、言ってしまおう。わたしがふいにわかったというのは、おまえのお母さんがちっとも賢くないということだ。それを理解し受け入れるのは、たやすいことではなかった。子供を見る目はだれでも甘いし、そのうえあれがむずかしいことをわけ知り顔でならべたてるものだから、まんまとだまされてしまっていたのだ。もしもっと早くそれを認める勇気があったら、もっとしつかり彼女を愛し、守ってやれたかもしれない。守りながら救うことだってできただろう。
 大事なのはまさしくそのことだったのに、気がついたのは、もうなすすべもなくなってからだった。状況をそっくり兄わたしてみて、その時点で唯一できるのは、イラリアにきつばり言ってやることだった。わたしがたとえあんたの子供をさらってきたって、いまのあんたには訴訟を起こしたくても起こせないんだよ、と。わたしたちはーつまりわたしと弁護士は−−その手段に出ることに決めたのだと言うと、おまえのお母さんはいきなりヒステリックにわめきだした。「はかったのね。みんなあたしから子供を奪うための作戦だったわけね」わたしが思うに、どなりながら彼女がなによりも気にしていたのは、もしなにかを意図することも望むことも不可能だと判断されたら、せっかくの将来のプランも水の泡になるということだったにちがいない。目隠しをされて深淵の縁を歩いていながら、まださきにピクニックのできる草原があると信じていたのだ。パニックがおさまると、弁護士をクビにして追いだせとわたしに
102〜103頁

 いつか言ったように、わたしは高校を終えると、父.親の反対で学問を断念した。わたしにとって、あきらめるのはつらすぎた。そのために、いつも知識に飢えていた。ある若者が医学を勉強しているといえば、いろんな質問をしてあらゆることをききだそうとした。未来のエンジニアにも、未来の弁護士にも同じことをした。そんな行動がわざわいして、まるで和手よりその人の活動のほうに興味があるような印象を与えたが、でもおそらくそれが事実だったのだ。友達や学校の仲間と話していると、まるで何光年もむかしの世界へ逆もどりしたような気がした。わたしと彼女たちをわけていたもののうち、きわだっていたのが女性に特有の狡猜(こうかつ)さだった。わたしにはそれがまったく欠けていたのに、彼女たちはその能力を最大限に発揮していた。男は見かけは尊大だったり自信家だったりしても、気の毒なほど弱くて純情なものだ。彼らが内部にもっているテコなんてじつに簡単なつくりだから、ひと押しされただけでフライ
121頁

バンに落っこちて、魚のフライみたいになってしまう。わたしがそれを知ったのはかなり後のことだったが、仲間たちは十五、六の年ごろですでに見抜いていた。
 彼女たちは、生まれつきそなわった勘で椙手からのカードを受けとったり押しかえしたり、自分が書くときは相手によって語調を変えたり、約束をしながら行かなかったりさんざん待たせたりした。ダンスの最中には身体のここぞという部分を相手に押しつけ、押しつけながら相手の目を若い牝鹿のような熱い視線でじつと見つめる。女の狡猜さというのはこういうことで、この媚(こ)びを武器にして彼女たちは男を落とした。
それなのにわたしときたらイモみたいで、自分のまわりでそんなことが起きているとは気がつきもしなかった。こう言ったらおかしいかもしれないが、わたしは誠実さというものに恵まれすぎて、そのために男をペテンにかけるなんて夢に見ることさえできなかった。わたしは考えていた。飽きずに夜を語りあかすことのできるような青年がいつかあらわれるだろう。活せば話すほど、ものの見方も感じ方も同じだと思うような若者が。そうしたら、愛がめばえるかもしれない。安易なペテンにではなく、友情と尊敬にもとついた愛が。
 わたしがほしかったのは恋愛感晴のまじった友情だった。だからわたしは、言ってみれば男みたいなふるまい方をした。対等の関係という意識が、わたしのとりまきたちに脅威をあたえたのだろう。わたしはしだいに、ふつうブスの部類に入る役目を負うはめになった。ボーイフレンドも多かったのに友情は一方通行で、わたしのところへ来るのは、恋にやぶれたと愚痴を言いたい男だけになった。わたしの仲間たちはひとりまたひとりと結婚した。あるとき気がついてみると、わたしのすることといったら.、結婚式に出ることくらいしかなくなっていた。おない年の友人たちに子供が生まれるようになっても、わたしだけはかわらず独り者のおばさんで、きっと一生独身なんだと半ばあきらめながら両親の家に暮らしていた。「おまえはいったいなにを考えてるの?」というのが母の口癖だった。「ティツィオもカイオも気に入らないとはどうしたわけだい」親からすれば、わたしが異性とうまくゆかないのは、わたしの性格がゆがんでいるからにきまっていた。
 正直言って、わたしはどうしても家庭をもちたいとは思っていなかった。この世に子供を送りだすと考えただけで尻ごみするようなところがわたしにはあった。自分が子供のころから.ひどく苦しんだので、罪もない子供を同じように苦しませるのではないかと心配だった。おまけにわたしは、親の家には住んでいたがなんでもひとりでやっていて、一日の時間を好きなように使っていた。小遣いをいくらかかせぐために、好きだったギリシャ語とラテン語を教えていたが、それを別にすればなんの仕事もな
122〜123頁

訳者あとがき

 逝ったものがわたしたちの胸にのしかかるのは、おたがいに言わなかったことがあるためなのだーこの思いから、人生も残りすくないと悟った老女が、遠くはなれた孫娘への置き手紙のつもりで口記を瞥く。その日記は、孫娘とのあいだに横たわる、理解しあえなかった日々を埋めようとするこころみであり、それと同時に、それまで自分自身にさえ明らかにしようとしなかった、心の暗部の告白でもあった。
 いまはもう年老いた主人公のオルガは、かつて満たされない結婚生活をおくるうちに心から愛する男にめぐり会い、イラリアという娘を産む。夫をはじめすべての人たちにつき通せたと信じていた嘘が、オルガの人生をしだいに暗闇にみちびいてゆく。娘のイラリアも、愛人に死なれて心のささえを失った母親と継父のあいだにはさまれて、やがて精神の均衡をなくしてゆく。父親のわからない子供を産んだ後、自分の出生の秘密を知り、ショックのあまり幼い娘を置き去りにして自殺する。その幼い娘こそ、老いたオルガが手紙を書いている孫娘であった。
 オルガが孫娘の前に自分のすべてをさらけ出したのは、重荷をおろして軽くなるためではなく、亡くしてしまった娘のかわりに、孫娘に愛情をこめて語りかけるためだった。いちばん恐ろしい相手は自分の心に宿る思いなのだから、心の内奥を見つめる旅をしてほしい、心にひそむ根源的な願、いが何なのかを見つけてほしい。オルガはひたむきに、けれど穏やかにそう孫娘に語ろうとする。語り口は穏やかでも、かつての情念が行間からほとばしるようだ。

 ここには老女の心情や動きがじつによく描かれているが、作者のスザンナ・タマーロがこの作品(1994)を書いたのは二年前、三十六歳のころだった。八十歳の老女の身になるには苦労したと、当然ながらスザンナ自身も言っている。発作の後遺症で動くのも容易でなく、コーヒー一杯滝れるにも骨を折る老女の日常がどんなものか、想像するのもむずかしかった。そんな彼女をささえたのは、長い年月を祖母とふたりで暮らした経験だった。
 スザンナは一九五七年にトリエステの改宗ユダヤ人の家庭に生まれた。幼いころの彼女は大きな青い目をした美しい子だったが、自閉症気味で無口だった。両親は彼女が子供のころ別れ、それからは長年祖母のエルザと、作品に出てくるトリエステの高台の家で暮らしていた。主人公のモデルでもあ.るエルザは、個性のはっきりした強い女性だった。スザンナの作家魂をはぐくんだのも、空想好きなこの祖母だった。トリエステの作家イタロ・ズヴェーヴォの義姉妹でもあ.ったエルザは、アルツハイマーを病みながら、数年前に世を去った。
 スザンナは本書に出てくる孫娘とおない年のころ祖母の家を出てローマにうつり、映画実験センターでシナリオを勉強しはじめた。小説が出版されるようになるまで、イタリア国営放送
のために動物ものの記録映、間などを製作していた.そのあいだに、ローマから電車で一時間ほどのオルヴィエートに農家を借りた。いまでは週に一回ローマに出てくるほかは、おおかたの時閻をその丘の上のひつそりした家で過ごしながら、犬.のトミーとのら猫数匹を相手に執筆活動をつづけている。自然にかこまれた田舎屋は、老女の物語を香くにはいかにもうってつけといった風情である。書きながら外に目をやれば、そこにはカシの大木がそびえている。スザンナの想念はそこから生まれ、故郷のトリエステへとごく陶然にうつっていった。
 トリエステの白然はオルヴイエートの穏やかな自然とは反対に、荒々しくとげとげしいおもむきをもっている。ジェイムズ・ジョイスやイタリアの詩人ウンベルト・サーバに縁のふかいこの国境の町は、美しい景観とはうらはらに冬には海からの突風をまともに受け、人びとはきびしい暮らしを強いられる。それだけ.ではない。第一次世界大戦が終わるまで、この土地はオーストリアの支配、Tにあっ.た。本書の・王人公がイタリア中都のラクイラにある夫の実家で暮らしていたころ、《ドイツ女》と呼ばれていたのもそんな事情からだった。イタリア領になってからも、隣接する旧ユーゴの紛争の影響を受けつづけ、難民問題に悩まされている。ユダ.ヤ人をはじめとして住む人種もさまざまで、いろいろなきしみをかかえている。この地方の文.学に心理的葛藤の色が濃いのも、自然と人間のつくりだす条件を考えれば十分うなずける。
 スザンナはそんなトリエステで育ったから、オルヴィエートにうつり住んでほっとした。トリエステの自然も好きだったが、好きというよりその魔物のように不可解な力に惹かれていた。
いつぼうオルヴィエートの自然は心に、平安をあたえてくれる。そこではじめて彼女は、自分のろしい相手は自分の心に宿る思いなのだから、心の内奥を見つめる旅をしてほしい、心にひそむ根源的な願いが何なのかを見つけてほしい。オルガはひたむきに、けれど穏やかにそう孫娘に譲ろうとする。語り口は穏やかでも、かつての情念が行間からほとばしるようだ。
 ここには老女の心情や動きがじつによく描かれているが、作者のスザンナ・タマーロがこの作品(1994)を書いたのは二年前、三十六歳のころだった。八十歳の老女の身になるには苦労したと、当然ながらスザンナ自身も言っている。発作の後遺症で動くのも容易でなく、コーヒー一杯淹れるにも骨を折る老女の日常がどんなものか、想像するのもむずかしかった。そんな彼女をささえたのは、長い年月を祖母とふたりで暮らした経験だった。
 スザンナは一九五七年にトリエステの改宗ユダヤ人の家庭に生まれた。幼いころの彼女は大きな青い目をした美しい子だつたが、自閉症気味で無口だった。両親は彼女が子供のころ別れ、それからは長年机母のエルザと、作品に出てくるトリエステの高台の家で暮らしていた。生人公のモデルでもあるエルザは、個性のはっきりした強い女性だった。スザンナの作家魂をはぐくんだのも、空想好きなこの祖母だった。トリエステの作家イタロ・ズヴェ〜ヴォの義姉妹でもあったエルザは、アルツハイマーを病みながら、数年前に世を去った。
 スザンナは本書に出てくる孫娘とおない年のころ祖母の家を出てローマにうつり、映画実験センターでシナリオを勉強、しはじめた。小説が出版されるようになるまで、イタリア国営放送のために動物ものの記録映画などを製作していた。そのあいだに、ローマから電車で「時間ほどのオルヴィエートに農家を借りた。いまでは週に「回ローマに出てくるほかは、おおかたの時間をその丘の上のひっそりした・家で過ごしながら、犬のトミーとのら猫数匹を相手に執筆活動をつづけている。自然にかこまれた田舎屋は、老女の物語を書くにはいかにもうってつけといった風情である。書きながら外に目をやれば、そこにはカシの大木がそびえている。スザンナの想念はそこから生まれ、故郷のトリエステへとごく自然にうつっていった。
 トリエステの自然はオルヴィエートの穏やかな自然とは反対に、荒々しくとげとげしいおもむきをもっている。ジェイムズ・ジョイスやイタリアの詩人ウンベルト・サーバに縁のふかいこの国境の町は、美しい景観とはうらはらに冬には海からの突風をまともに受け、人びとはきびしい暮らしを強いられる。それだけではない。第一次世界大戦が終わるまで、この土地はオーストリアの支配下にあった。本書の亀人公がイタリア中部のラクイラにある夫の実家で暮らしていたころ、《ドイツ女》と呼ばれていたのもそんな事情からだった。イタリア領になってからも、隣接する旧ユーゴの紛争の影響を受けつづけ、難民問題に悩まされている。ユダヤ人をはじめとして住む人種もさまざまで、いろいろなきしみをかかえている。この地方の文学に心理的葛藤の色が濃いのも、自然と人間のつくりだす条件を考えれば十分うなずける。
 スザンナはそんなトリエステで育ったから、オルヴィエートにうつり住んでほっとした。トリエステの自然も好きだったが、好きというよりその魔物のように不可解な力に惹かれていた。いつぽうオルヴィエートの自然は心に平安をあたえてくれる。そこではじめて彼女は、自分の心の奥底をのぞくゆとりを得たのだった。
 心を見.つめる方法として、スザンナははじめ精神分析をこころみた。しかしこれは失敗だった。分析は医者に自分を預けるようなかたちになり、主体的に自分をたて直す.役にはたたない。
その思いを強くしたことは、本書からもうかがえる。
 つぎにためしたのは柔道だったが、これは好きになれなかった。そこで空手をはじめてみると今度は性に合った、空手は彼女の過敏な神経をしずめ、安定と自律をもたらしてくれた。身体が美しくなるばかりか心まで清浄にしてくれるような空手に、スザンナは惚れこんだ。その後はじめた瞑想や座禅も、空手の延長線上にあった。自身のうえに意識を集中し、静寂の深さをはかるうち、いつのまにか自分が解放されていることを知る。その喜びはなにものにもかえがたかった。そのうちに東洋の宗教にも興味をもちはじめ、ヒンドゥー教の経典までひもとくようになった。本書のモデルは祖母であっても、作者の自伝的要素が多分にふくまれている。
 本書はイタリアで昨年の「月に出版されてから、」気にベストテンのトップにのぼり、その後年末まで一位をゆずらずに、とうとう一九九四年のナンバ〜ワンになってしまった。いまだにベストテンの上位を占め、イタリア国内だけで二〇〇万部に達し、翻訳も二二カ国におよぶ。なぜこれほどの人気になったのだろう。その秘密は、まるで読者とじかに対話をするような、真摯でうちとけた語り方にあるのだろう。わたしたちは読むうちに、人生の真実を淡々と語る老女の心の奥ふかくに知らぬまに吸いこまれ、気がついたときには、自分の心の奥底への旅をはじめている。若い世代から高年代まで、とくに女性の圧倒的な共感を得たのは、この物語が三世代の女たちの心の歴史でもあるからだろう。世代間のずれからくるおたがいの理解のむずかしさ、女性のかかえる悲哀や孤独。それはいつどこの女性にも共通したものなのだから。
 けれどもスザンナ・タマーロの作品に惹かれるのは女性だけではない。たとえば若手世代文学のホープとして八○年代半ばにさっそうと登場したマルコ・ロドーリは、「タマーロの人間への深い洞察にはすっかり魅了されてしまった。彼女の成功はまったく驚くにあたらない。入生の愛し方を模索していた人びとに、タマーロは道しるべを与えてくれたのだから」と言っている。しかしスザンナをこよなく愛した人と言えば、映画監督のフェデリコ・フェリー二だった。彼はスザンナを永遠のティーンエイジャーと呼び、映画『道』のジェルソミーナになぞらえた。スザンナは繊細ではあっても、ジェルソミーナよりはるかに強くしたたかな個性をもっている。フェリー二はやせっぽちのスザンナに.、純粋無垢な青春をかいま見ていたのだろうか。
 本書の主人公は老女だが、スザンナのこれまでの作品では、子供向けはもとより、大人向けの長篇一作短篇数作でも、主人公はほとんど子供たちだった。書くことが一種のカタルシスであるとすれば、不運な子供時代をおくったスザンナにとって、子供は永遠のテーマなのかもしれない。今年の五月、オルヴイエートのあふれかえる緑のなかで私が出会ったスザンナは、もうじき四十になろうとする中年の女ではなくて、まさにフェリー二の言う《十二歳の少女》だった。
 映画と言えば、『ブーベの恋人』の監督ルイジ・コメンチーニの娘、クリスティーナ・コメンチー二がこの作品の映画化を進めている。彼女は本書を読んで心をはげしくゆさぶられ、ぜひ映画にしたいという思いにかられて、気乗りのしないスザ.ンナを説き伏せたそうだ。クリスティーナは一歳ちがいのスザンナの友人だが、ジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』のような、斬新で刺激的な映画にしたいと言っている。
 この作品を読みながら、読者の方々がさまざまな思いを作者と親しく語りあってくださったとしたら、訳者にとってこれほどうれしいことはない。それは日本に深い関心を抱いている作者にとっても、大きな喜びにちがいないのだから。

一九九五年夏                 泉 典子


心のおもむくままに

1995 Soshisha

1995年9月7日 第1刷発行
1995年l0月5日 第6刷発行

著者 スザンナ・タマーロ訳者 泉 典子
装丁者 本山吉晴
発行者 加瀬昌男
発行所 株式会社 草思社
印刷 株式会社三陽社
カバー 株式会社大竹美術
製本 大口製本印刷株式会社




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