きょうこの頃



2015年8月11日(火)

 谷崎潤一郎『細雪 中巻』読了。

 さすがに1巻1巻が長い。

 中巻では事件の連続である。

いつたい今年は、春に雪子の見合ひの件があつてから、六月には舞の曾があり、引き續いてあの大水害、妙子の遭難、おさく師匠の逝去(せいきよ)、シュトルツ一家の歸國、東京行き、關東大暴風、奥畑の手紙が捲(ま)き起した暗雲、…と、今迄隨分いろいろな事件が多かつたのに、それが此處へ來て一遍に靜かになつたので、一つはそのために、何かぽかんと穴の開いた、手持無沙汰(てもちぶさた)な氣がするのであらう。それにつけても、幸子は自分の生活が、内的にも外的にも、如何に二
(243p)

 食通・“大”谷崎の面目躍如。
狹い店内は客が鍵(かぎ)の手(て)に十人も椅子を連(つら)ねることが出來たであらうか。貞之助達の外に、此の近所の株屋、街の且那らしいのが店員を二三名連れたのと、その向うの端(はし)に、花隈(はなくま)の藝者らしいのが姐(ねえ)さん株を頭に三人ゐるのと、それだけでもうぎつしりで、客逮のうしろと壁との間には、人一人が辛うじて通れる通路しか空(あ)いてゐなかつた。それでも時時表の障子(しやうじ)を開けては滿員の店内をジロジロ見渡して、何とか都合して貰へないだらうかと懇願するー哀願さへもする1客が絶えないが、此の店の親爺(おやぢ)もよくある鮨屋(すしや)の親爺(おやぢ)の型で、無愛想(ぶあいさう)を賈り物にしてをり、常連のお客でも豫(あらかじ)め申込を聞いてゐない限り、這入れるかどうか見たら分るだらうと云ふ顏をして、突慳貪(つっけんどん)に斷つてしまふ。そんな風だから、振りのお客は餘程間拍子(まびやうし)のよい時でなければ
入れて貫へない。常連の、ちやんと竃話で申し込んであるお客でも、時間が十五分か二十分おくれると斷られたり、一時闇ばかりその邊を散歩して來てくれ、などd云はれる9鴫乏此の親爺憾、今はなくなつたが明治時式輩有名であつた東京、兩國の興兵衛で修.業した男なので、.「與兵」と云ふ名はそれに因(ちな)んだのださうであるが、鮨(すし)そのものは昔の兩國の典兵衞鮨とは趣を異にしてゐた。それと云ふのが、親爺は東京で修業したもの」、生れは聯戸の人間なので、握.り鮨ではあるけれども、彼の握るのは上方(かみがた)趣昧の頗(すこぶ)る顯著なものであつた。たとへば酢(す)は東京流の黄色いのを臨怏はな.いで、白いのを使つた。醤油も、東京人は決して使はない關西の溜(たまり)を使ひ、蝦(えび)、鳥賊(いか)、鮑(あはび)等の鮨(すし)には食塩を振りかけて食べるやうにす乂めた。そして種は、つい眼の前の瀬戸内海で獲(と)れる魚なら何でも握つた。彼の詭だと、鮨(すし)にならない魚はない、晋の興兵衞の主人などもさう云ふ意見だつたと云ふので、その點で彼は東京の興兵衞の流れを汲んでゐるのであつた。彼の握るものは、鱧(はも)、河豚(ふぐ)、赤魚(あかを)、つばす、牡蠣(かき)、生(なま)うに、比目魚(ひらめ)の縁側、赤貝の腸(わた)、鯨(くぢら)の赤身、等々を始め、椎茸(しひたけ)、松茸、筍(たけのこ)、柿などに迄及んだが、鮪(まぐろ)は虐待して餘り用ひず、小鰭(こはだ)、はしら、青柳(レのだやぎ)、玉子焼等は全く店頭に影を見せなかつた。種は煮焼きしたものも盛(さかん)に用ひたが、蝦(えび)と鮑(あはび)は必ず生きて動・いてゐるものを眼の前で料理して握り、物に依つては山葵(わさび)の代りに青紫蘇(あをじそ)や木(こ)の芽(め)や山俶(さんせう)の佃煮(っくだに)などを飯の間へ挾(はさ)んで出した。
妙子は此の親仁とはかなり前からの馴染みで、或いは與兵の発見者の一人であつたかも知れない。外で食事することの多い彼女は、神戸も元町から三宮界隈(かいわい)に至る腰掛のうまいもの屋の消息には實によく通じてゐて、まだ此の店が今の所に移る前、取引所の筋向うの細い路次(ろじ)の、今よりもつと小さな、所で商費を始めた頃た早くも此處を見付け出して、貞之助や幸子逑にも紹介したのであつた。彼女に云はせると、此この親爺(おやぢ)は「新青年」の探偵小誂の插繪などにある、矮小(わいせう)な體躯(たいく)に巨大な才槌頭(さいづちあたま)をした畸形兒(きけいじ)、ーあれに感じが似てゐると云ふことで、貞之助達は前に彼女から屡々(しばしば)その描寫を聞かされ、彼がお客を斷る時のぶつきらぼうな物言ひ、庖丁(はうちやう)を取る時の一種興奮したやうな表情、眼つきや手つき、等々を仕方話(しかたぱなし)で委(くは)しく説明されてゐたが、行つて見ると、叉本物が可笑(をか)しいほど彼女の眞似によく似てゐた。親爺(おやぢ)は先(ま)づ、客をずらりと並べて置いて、一往( いちわう)何から握りませうと注文を聞きはするけれども、大概自分の仕勝手のよいやうに、最初に鯛(たひ)なら鯛を取り出して、頭数だけ切り身を作つて、お客の總(す)べてに一順それを當てがつてしまひ、次には蝦(えび)、次には比目魚(ひらめ)と云ふ風に一種類づつ片附けて行く。二番目の鮨(すし)が置かれる迄の間に、最初の鮨を食つてしまはないと、彼は御機嫌が斜めである。當てがはれた鮨を二つも三つも食べずに置くと、まだ殘つてゐますよと、催促することもある。種は目によつていろくだけれども、鯛と蝦とは最も自慢で、どんな時でも缺かしたことはなく、いつも真っ先に握りたがるのは鯛であった。トロはないか、などと云ふ不心得な質問を發するお客は、決して歡迎されなかつた。そして氣に入らないことがあると、恐ろしく山葵(わおび)を利(き)かして客をあツと跳(と)び上らせたり、ポロポロ涙を零(こぼ)させたりして、ニヤくしながら見てゐるのが癖であつた。
取り分け鯛(たひ)の好きな幸子が、妙子に此處を紹介されてから、忽(たちま)ち此の鮨(すし)に魅了されて常連の一人になつたのは當然であるが、貧は鯨子も、幸子に劣らないくらゐ此の鮨には誘惑・を感じてゐた。少し大袈裟(おほげさ)に云ふならば、彼女を東京から關酉の方へ惹(ひ)き寄せる數々の牽引力(けんいんりよく)の中に、此の鮨も這入(はい)つてゐたと云へるかも知れない。彼女がいつも東京に在(あ)つて思ひを關西の空に馳(は)せる時、第一に念頭に淨かぶのは蠶屋(あしや)の家のことであるのは云ふ迄もないが、何處(どこ)か頭の隅の方に、折々は此處の店の樣子や、親爺の風貌(ふうばう)や、彼の庖丁(はうちやう)の下で威勢よく跳(は)ね返る明石鯛(あかしだひ)や車海老(くるまえび)のピチくした姿も浮かんだ。彼女は孰方(どちら)かと云へば洋食黨で、鮨は絡別好きと云ふ程ではないのだけれども、東京に二た月三月もゐて、赤身の刺身ばかり食べさせられることが續くと、あの明石鯛の昧が舌の先に想(おも)ぴ出されて來、あの、切り口が青貝のやうに底光りする白い美しい肉の色が眼の前にちらついて來て、それが奇妙にも、阪急沿線の明るい景色や、蘆屋の姉や姪(めひ)などの面影(おもかげ)と一つもののやうに見え出すのであつた。そして、貞之助夫婦も、雪子の關西に於ける樂しみ
(278−279p)


日本軍の漢口侵攻作戦とチェッコのズデーテン問題 214p
阪神大水害 昭和13年7月3日〜5日
三越の7階、ジャアマンベーカリー、コロンバン 
尾張町 服部の地下
銀座 ローマイア http://kimcafe.exblog.jp/3295305 今はない。



数寄屋橋際のニュウグランド
両国 与兵衛寿司 與兵 http://kimcafe.exblog.jp/3883945/ (又平 上の店らしい 今はうつったか?)





















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