きょうこの頃
2015年2月28日(土)
中村元『仏典のことば』読了。
日本語に対しての戦後教育への不満。
知恵の恵では決してなく、智“慧”である。
“分”かるも“解”るであって、分かるはおかしい。
すわるはあくまで“坐”るで“座”るはおかしい
精神的荒廃
「臣下はその君主を欺き、子はその父を欺き、兄弟、夫婦、親しい友、親しくない友は皆互いに欺き合う。かれらはみな貧欲であり、憎悪を抱き、無知であり、自分の財を増やすことのみに専念して、さらに多くを貧る。身分の尊い者も低い者も、地位の高い者も低い者も、すべて同じ心である。家庭を破壊し、身を滅ぼし、周囲を顧みることをせず、親族や知己も巻き込まれて滅ぶのだ。あるときは家族や友人や郷里の人びとまで巻き込まれて事に従い、互いに利益にとらわれて怒り、憎むのだ。富裕でありながら物惜しみして与えず、宝石を愛し、高価なものを貧って、心疲れ、身は苦しむようになる」
近年のわが国は、経済的には富裕になったと言われておりますが、何と心の荒んだ出来事が多いことでしょうか。
末法末世の世の中を嘆いたこの『大無量寿経』の一節は、いまの精神的荒廃をそのまま物語っているといってよいのではないでしょうか。この経典のつくられた二千年も前の状況であるのみならず、実は近年のわが国の姿ではないでしょうか。
こういう争いが起こらないように法律がつくられていると、人びとは言うでありましょう。しかし法律の実際の機能を見ると、どうかすると、この頃は悪人の人権は擁護されるけれども、善人一般の人権がどうも無視されているのではないかと思われることが、しばしばあります。この点で、戦後の法律制定老たちには大きな責任があると思います。互いに話し合い、互いに助け合うという、昔からの日本人のあいだの協力和合の精神を破壊してしまったのではないでしょうか。
「主人は次の五つのしかたで、奴隷傭人に奉仕しなければならぬ。すなわち、(1)その能力に応じて仕事をあてがう。(2)食物と給料とを給与する。(3)病時に看病する。(4)すばらしい珍味の食物をわかち与える。(5)適当なときに休息させる」(「シンガーラへの教え」)
スリランカの仏教学者ブッダゴーサ(五世紀)は、その一つひとつについて次のように説明しています。
(1)〈その能力に応じて仕事をあてがう〉とは、「若者のすべきことを老人にはさせず、老人のすべきことを若者にはさせず、女のすべきことを男にはさせず、男のすべきことを女にはさせず、それぞれの力に応じて仕事をあてがう」のである。 、 、
(2)〈食物と給料とを給与する〉とは「「この男は少年である」「この男は独身者であるdというふうに、その人に適当な程度を顧慮して、食物を与え、費用を与える」という。つまり年齢差や家族手当の問題に相当することを述べているのである。「生きとし生ける者は食をもととしている」ということは、仏典の中にしばしば説かれていることであります。
」人びとに対しては、まず食えるようにしてやらなければならない。食物の問題の解決が生活の基礎となることを見抜いているのであります。
(3)〈病時に看病する〉とは、「健康でない時には、仕事をさせないで、快適な物品、薬品などを与えて看病すること」である。
(4)〈すばらしい珍味の食物をわかち与える〉とは、「珍しい甘味を得たならば、自分では食べないでも、かれらのためにも、その中からわかち与えること」である。自分の使っている使用人のために、まず美味を与えるということは、なかなかできないことである。しかし、もしもそれができたならば、経営者と使用人との間の感情的な摩擦は起きないであろう。
(5)〈適当なときに休息させる〉とは、「常時にまた臨時に休息させることである。〈常時に休息させる〉とは、人びとは一日じゅう仕事をしているならば疲れてしまう。それゆえに、かれらが疲れないように、適当な時を知って休息させるのである。〈臨時に休息させる〉とは、六つの〔星の〕祭礼などに、装飾品、器、食物などを与えて休養させるのである」。
人間は、働き通しでは本当に能率をあげることができない。どうしても適当な休養をとることが必要である。
右の議論は、千五百年前にパーリ語で書かれたとは思われないほど、なまなましいひびきがあります。
ところで、「能力に応じて仕事をあてがう」ということについて、さらに考えてみましょ》つ。
若者は体力、気力にすぐれ、これにたいして老人は体力も気力も衰えています。しかし、老人は多年にわたる失敗の経験のゆえに、思慮分別に富むが、若者は体力気力にまかせて無謀に暴走する恐れがあります。そこでそれぞれに適した仕事をあてがうということが必要になります。また未成年の少年少女に過重な労役を課してはならぬという心づかいも、同じ原則からでていると言えましょう。
「女のすべき仕事」と「男のすべき仕事」とを区別することは、どこの国でも昔から行なわれてきたことですが、現在工業化の進んだ国では問題になっています。
近代文明において機械使用の度合いが進むと、性別による仕事の別は次第に消失していく傾向があります。ボタンを押すだけでよい、ということになると、男でも女でも同じことになります。やがてロボットが人間に取って代わるということになるでしょうが、ロボットに男女の差は存在しません。やがてロボットが何もかもしてくれることになると、「人間不要」に向かって進むでしょう。
ところでロボットには男女の性別はないのですが、人間にはそれがあるという事実のうちに、われわれは見失ってはならない根源的な人間の本質規定を見出します。人間にとって男女の区別は、本質的な規定です。人間は生まれ落ちたときから、男か、女か、いずれかです。どちらでもない人間というものは存在しません。男女の別は、人間における根源的な両極化現象です。東アジアの文明では、これを「陰」と「陽」の対立として把捉しました。たとえば優美は女性の徳として、剛毅は男性の徳として重んぜられました。
英語文化圏でも男性化した女性を非難して、「シー・イズ・ノット・フェミニン」といいます。
男女の性を無視するということは、人間を人間としてではなくて、単なる物体として把捉しようとする試みです。物体化の領域においてはそれは差し支えありません。しかし男性化した女性、女性化した男性ばかりが増大しつつある社会のうちには、人間性の喪失が見られます。
これは、経営者の方々はもうよくご存じのことだと思いますが、この頃、「男女平等」
ということをしきりに言われますが、厳密な意味での男女平等は、これ宗教の世界で言われることでありまして、また宗教の世界はそうでなければならない。しかし、実際の社会では、短絡的に男女平等で押し通すことはできないのではないでしょうか。平等だからといって危険な仕事を女性にやらせていいでしょうか。やっぱり人間社会の多層構造を考えねばならないかと思うのです。
(p.99-103)
長引く宗教戦争についての示唆的な文。
教条主義の弊害。
教えは筏のようなものであるということは、原始仏教以来説かれていました。
「譬えば街道を歩いていく人があって、途中で大水流を見たとしよう。そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。そのときその人は、草、木、枝、葉をあつめて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全にかなたの岸に渡ったとしよう。かれが渡り了ってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。すなわち「この筏は実にわれを益することが多かづた。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう」と。汝らはそれをどう思うか? その人がこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか? その方便であり手段蕎終わって目的を達したならば、その筏に対しなすべきことをしたのであろうか?
「そうではありません。尊師さま」
宗教の教えというものは、悩める人間を、流れを超えて彼方の境地へ導いていく、その方便であり、手段です。渡り終わって目的を達したならば、その義務を果たしたならば、それを捨てて、またかなたのものをめざすべきです。
教えというのは、ある特定の状況において特定の人、あるいは人びとに説かれたものであるから、状況や事情が変化したならば、教えは捨て去られねばなりません。誤って奉ぜられていた非法は、なおさらのこと捨てられねばなりません。
人類の過去の歴史を見ますと、いずれかの宗教の開祖が説き、それを後世の教義学者は敷桁して教義を作る。それを固定的に考え、後生大事に保存している人びとがいた。いかなる理由で特殊な.教義が説かれたのか、そのわけを理解しようとする試みを拒絶した。その結果、いつのまにか宗教の本来の目的には反するようなことが起き、はては宗教戦争が勃発し、入を殺すような愚かなことを行ない、異端者は残酷に処刑されました。
今日では、宗教の対立は弱まっていると思います。しかし、そのかわりにイデオロギーの対立相剋が深刻です。あるいはイデオロギーと結びついた国家エゴイズムが対立抗争しているのだと言うべきであるかもしれません。もし教条主義にとらわれるならば、人類を破滅に導く恐れがあります。教義は役目を果たしたならば、捨て去られねばなりません。
人類を破滅に追いやるものは、頑冥な教条主義ではないでしょうか。
そこで宗教に関しては、とくに寛容の精神が必要となります。
「自らの宗教に対する熱烈な信仰により、「願わくは自己の宗教を輝かしめよう」と思って、自分の宗教をのみ称揚し、あるいは他の宗教を非難する者は、こうするために、却って]層強く自らの宗教を害うのである。ゆえにもっぱら互いに法を聴き合い、またそれを敬信するためにすべて一致して和合することこそ善である。けだし神々に愛される王(アショーカ王)の希望することは、願わくはすべての宗教が博学でその教義の善きものとなれかし、ということだからである」(アショーカ王の詔勅)
古代インド・マウリヤ王朝のアショーカ王(西紀前三世紀)は、現在のインド連邦、ネパール王国、パキスタン、アフガニスタンのみならず、ソ連領中央アジア、中国領中央アジアまで支配した大帝玉でしたが、このような普遍的国家においては、諸種の民族が生存し、種々異なった宗教を信奉していたので、当然「信教の自由」ということが問題になりました。それは「寛容」につながる問題です。
アショーカ王は熱烈な仏教信者でしたが、決して他の諸宗教を排斥することはありませんでした。かれはジャイナ教、バラモン教、アージーヴィカ教をも、保護し援助しました。
かれは、もろもろの宗教の感化が民衆一般の間に広く普及することを熱望していました。
かれは特殊な一つの宗教のみを真正な宗教として保護して他の諸宗教を弾圧しようとしたのではなくて、すべての宗教の盛んなことを願ったのです。「一切の宗教の者があらゆる所において住せんことをねがう」というのが、かれの心願でした。かれは、各宗教各宗派が互いに争うことなく、相提携し協同して法の実現に向かって遇進することを理想としていました。
ここで「法」というのはインドの原語「ダルマ」の訳です。西洋の「宗教」(レリジョン)という語を南アジアの人びとは「ダルマ」と訳しています。それはまた「倫理」とも訳されえます。「宗教」と「倫理」とを区別するのは、ヨーロッパ的な局地的な見解であって、汎地球的な見解ではありません。
(p.236-239)
仏典のことば
―― 現代に呼びかける知慧 ――
中村 元
前田 專學 解説
■体裁=A6.並製・カバー・296頁
■定価(本体 1,180円 + 税)
■2004年6月16日
■ISBN4-00-600124-X C0115
仏典が時空を超えて,現代人の心の悩みに呼びかけてやまないのはなぜか.本書は碩学が経済倫理,政治倫理,人生の指針など仏教の社会思想の全体像をわかり やすく説き,人間はいかに生きるべきかをブッダの生涯に即して語る.混迷する現代の緊急の課題に仏教の教えはどう応えるかを解明しようとした「仏典のエッ センス」である.
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/元
1912‐1999年。島根県に生まれる。東京大学文学部印度哲学梵文学科卒業。インド哲学、仏教学専攻。東京大学教授、スタンフォード大学客員教授などを歴任。文化勲章受章、学士院会員
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