きょうこの頃



2014年10月13日(月)

 岩田健太郎『絶対に、医者に殺されない47の心得』読了。

 あいかわらず文章がうまい。
 あっという間に読み終えてしまう。
 構成もうまい。


イポクラテス epokratesというアプリ

リマプロスト 脊柱管狭窄症に効く?
ドルナー ベラプロストナトリウム 糖尿病性ニューロパチー

近藤誠に『医者に殺されない47の心得』という著作があり、それに対するアンチテーゼか?

サンザシが心不全にいい?

痛風発作が起きていない高尿酸血症の患者には治療は必要ない;ケリーのリウマチ学





日本の医者のどうにも困つた善意

 日本では、世界ではほとんど見かけない医療を臼常的に行っていますゐ
 突出してARBという血圧の薬を使い(心得18参照)、突出してDPP-4阻害薬という糖尿病の薬を使い(心得16参照)、フロモックスやメイアクトという日本のほぼ専売状態の抗生物質を突出して使い(心得12参照)、「数値が異常だ」と言っては尿酸値を下げるだけの目的で薬を使っています(心得24参照)。
 では、なぜ日本でだけ、こんな奇妙な医療が成立しているのでしょう。
 口本の医者は、世界でもずば抜けて良心的な医者だと私は思っています。もちろん、これはあくまで平均像で、世界各地に素晴らしく良心的な医者はいますし、日本にも恥ずかしい医者はいます。でも、平均像としては、日本の医者は極めて良心的、利他的です。自らを犠牲にし、患者のために尽くしています。外国で暮らし、その国の医療を体験すれば、それは確実に実感できるはずです。
 良心的だからこそ、目の前の患者さんに、何かしてあげたい、という強い気持ちが湧き起こります。
「何もしないなんて気の毒だ。せめて薬くらい出してあげなければ」「この患者さん、尿酸値が高いじゃないか。これを看過するなんて、自分の良心が許さない」
「お、ここに新しい糖尿病の薬があるじゃないか。低血糖を起こしにくい? そりゃ、ぜひ今度うちの患者さんにも使ってあげないと」「手術後に、感染症を起こしては気の毒だ、(根拠はとくにないけど)念のため抗生物質を飲んでもらおう。フロモックスがいいな。あれは(効果がない分)副作用が少なそうだ」1こんな善意が、日本の病院には掃いて捨てるほどあふれています。
 一方、アメリカの医者やフランスの医者は、このような強いメンタリティーを持っていません。「尿酸値? ガイドラインに書いてないじゃない」といった感じでクールにバッサリ、のことが多いです。繰り返しますが、個々のレベルだといろんな人がいます。あくまで平均像です。
 日本の医者のハートは、世界的な目で見ると一〇〇点満点。比較的低い給料で、朝も晩も週宋も働き、勉強し、あれやこれやの要求に応え、クレームに対応し、患者の苦痛と苦悩に対応します。
 賭けてもいいですが、日本の病院に、もし日本語ペラペラのアメリカ人やヨーロッパ諸国のドクターが就職したら、ほとんどの人は数ヵ月と持たないと思います。「こんなところで働いていられるか」という感じです。
 とはいえ、B本の医者の善意は必ずしもよい結果を患者にもゐらしません。いや、「自分はこんなに患者に尽くしているのに」という熱い気持ちは、「だから自分のやり方につべこべ文句を言うな」というメンタリティーに容易に変化します。
 日本の医者が他人の言葉に耳を貸さず、行動変容を起こすのが苦手で、患者にも態度がよろしくない(ことがある)のはそのためだと私は思います。悪意でやっている分には、批判は簡単ですが、善意の発露なだけに、この問題は根が深いのです。
 本当に患者のことを心配するのであれば、尿酸値を下げる薬で起こり得るDIHSという皮膚病や、フロモックスやメイアクトで起こり得る低血糖発作や、アジスロマイシンやクラリスで起こり得る不整脈などにも配慮し、「心配だ」と思う必要があるのです。
 要するに、日本の医者は、あちらには過度に心配するくせに、こちらは放ったらかし。総じて心配のバランスがよくないのです。

  喜ばしい医療の変化の前兆も

 検査の「正常値」は「基準値」にすぎない。人によって「正常」の程度はさまざまで、いろいろな人がいてもよい、という話を心得25でしました。そうだとすれば、病気の治し方も多種多様でいいはずです。
 たとえば、{五歳の少年と九九歳のおじいさんでは、将来の目標も、人生観も、健康観も違うのが当たり前。むしろ、両者に同じ医療を提供するのは不自然なことだと思いませんか。
 [本は同調圧力が強く、「出る杭は打たれ」やすい社会です。でも、私が思うに馳自由の国」と思われがちなアメリカだって、アメリカ的価値観に同調しないと簡単に切り捨てられてしまいます。
 医療においても、同調圧力がより強いのはアメリカで、日本の医者のほうが、よく雷えば臨機応変、悪く書えばチャランポランだと私は思います。アメリカは「本音と建て前」の国です。建て前では「個々の患者の多様性を大切にして」と言いながら、実際にはガイドラインを何パーセント順守しているとか、保険会社が治療薬を決めたり、日本よりもずっと医療は平坦です。
 ただ、日本では建て前の後ろに本音が隠れていることが、わりと共有されていますが、アメリカではきっちり隠されていて見えづらいのです。
 最近では、そんなアメリカでも一やはり患者の個々の多様性を大切に治療しよう」
という流れが出てきています。その一例として、糖尿病を取り上げましょう。
 糖尿病は、高血糖が小さな血管、大きな血管を壊してしまうのが問題となります。
というのも、そのために目が見えない、尿が出ない、心臓発作などさまざまなトラブルを招くからです。ですから、治療の目標は「血糖値の正常化」となります。
 たしかに、理論的にはそうなのですが、現実世界は理想とは違います。医者らを震撚させた「ACCORD(アコード)」という研究があります。厳密に血糖値を低くしようと頑張ると、むしろ死亡率が高くなってしまうという結果が出たのです(*55)。これは、現実世界では血糖が低くなり過ぎて、その不利益が大きく出てしまう患者さんも少なくない、ということを意味します。判断の難しいところです。
 これを受けて、アメリカ糖尿病学会(ADA)は「血糖コントロールの目標を多様
化し、鱒患者さんの特徴(個性)に合わせて治療のやり方を変えましょう」という方針を立てました。具体的には、糖尿病の血糖値の指標・ヘモグロビンAlcの目標を三分割にしています。
 日本糖尿病学会も似たような推奨で「糖尿病の治療の仕方だって、人それぞれ、いろいろあってもよい」という考え方です。比較的画一的だったアメリカや日本の医療現場も成熟の兆しが見えている、そう私は感じています。
 とはいえ、現在のところ、残念ながら一律に同じような治療を提供している医者が多いこともまた事実です。「尿酸値が高ければアロプリノール」といった治療が、その典型です。
 多様化に向かう糖尿病治療についても、心得16でも述べたとおり、現場レベルでは首をかしげたくなるような治療もよく見られます。血糖値やヘモグロビンAlc「そのもの」を治療目標にしている場合も少なくありません。
 糖尿病のみならず、これからの医療は「何のために」という本来の目標(アウトカム)と、患者さんの人生観、価値観とのすり合わせで、どんどん多様化するでしょう。検査値そのものを治療してきた医療からの脱皮もそう遠くないと思います。


 健診という「ビジネス」に殺されるな

 外来には「健康診断(健診)で異常を指摘されたので精密検査を」という患者さんがよく来ます。でも、その多くの場合、精密検査は不要です。私は説明をして、検査を追加せずに帰ってもらうようにしています。
 検査での異常は、じつは異常ではありません。心得25でふれたとおり、検査には「基準値」があります。これは健康な一〇〇人を集めて、その大多数に当てはまる数値の範囲を表しています。従って、健康でもこの基準から逸脱する人は多く、それは病気でも何でもないのです。
 たとえば、血液の「白血球が高い」という理由で外来に来る患者さん。ほとんどが「基準値」を少し逸脱しているだけで、白血病とも思えず、「別に精密検査は要りません」と引き取ってもらっています。やたらと前のめりなドクターであれば、ここで骨髄検査をやろうとしますが、患者さんは痛い目に遭うし、私自身は疑問に思います。
 さて、「健診で異常」の患者さんをたくさん見てきて、「健診ってこんなにたくさん検査をして、本当に意味があるの?」と思っていたら、一般の健康診断をやっても死亡率は下がらないというメタ分析がイギリスの医学雑誌で発表されました(*59)。
 日本の健診は、学校保健安全法、労働安全衛生法といった法律が規定していて、大量の人が受診しています。でも、それが日本人の健康と安全にどれだけ寄与しているのか、確たるエビデンスはありません。たしかに、病気を早期に発見できるかもしれませんが、早期に発見できれば病気がよくなるとは限りません。
 検査の間違いで病気と誤判定されたり、薬を飲む期間が長くなれば、その分、副作用のリスクも増します。「健診があるから、健診する」という日本医療の必殺得意技、思考停止状態に陥っているだけのような気がします。
 とはいえ、健診はもう必要ないのかというと、そうとは限りません。たとえば、日本の研究でも、健診が「死亡率を減らした」と結論づけた研究もあります。もともと、健診を受ける人と受けない人では、前者のほうが健康的な可能性が高いので、そのあたりの事情も勘案して、特殊な分析をしています(*60)。
 けれども、研究によって効く/効かないと結論が分かれるのも、何だかおかしな話です。でも、医療の研究は、このように一意見がかみ合わない」複数の研究が同居す
るケースが珍しくありません。そして、「効く派」の人たちも、「効かない派」の人たちも、自分たちの説に都合のよい論文を引っ張ってきて「自分のほうが正しい」と主張するのです。そういう而では、けっこう医者は子供っぽい  。
 いずれにしても、こうして研究によって見解が分かれる場合、言えることが一つあります。それは、「健診が死亡率を下げるにしても、下げないにしても、(あるかもしれない)そのインパクトはさほど大きくはない」ということです。
 しかしながら、個々の患者さんを見れば、健診の恩恵をこうむることもあります。
たとえば、冒頭に述べた「白血球が高い」場合、「喫煙」が原因のことがよくあります。その点を主治医が確認し、禁煙指導に持ち込むという可能性が出てきます。
 というわけで、健康「診断は個々のケースで有用な場合はある。でも、これを集団に行うべきものだ、と結論づけるには「ちょっと弱いのでは」というのが私の意見です。個人と集団は分けるべし、です。
 大事なのは、立場や党派性を捨て、患者(市民)の利益のことだけを考えること。
健診という「ビジネス」に関与している人は大勢います。彼らの私欲のために、健診がいいように利用されていないか、という視点を忘れてはいけません。

 終末期とは何か  

 人間は必ず死にます。肉体も脳も衰えてきます。最終的に死を免れない以上、それは程度問題にづぎません。議論すべきは、終末期の定義ではなく、患者の「撤回可能性」だけだと私は思います。
 医者は、たとえ延命効果が減じても、患者の決断をより優先させます。患者が拒否しているのに・「無理やり長雄きさせる」ことは許されていません。糖尿病やエイズ・あるいは喫煙など、どんなケースでも、延命よりも患者の意思や自己決定のほうがより優先されるのです。そこに、対話や議論や説得の余地はありますが。
人工呼吸器は、あくまでも医療のマル。マルは使い方次第禁く同列には扱、兄ません・乎術前の人工呼吸器、生活の手段であるALS(筋妻縮性側索硬化症)患者の人工呼吸器・苦痛に苦しむ末期がん患者の人工呼吸器では目的が違います(*65)。
 ここでも・一律にマニュアル化するのではなく、患者と医療者との、細やかな対話が大事なのではないでしょうか。
人工呼吸器が飛医療の一ツールにすぎないこと。その使われ方は個々の患者で異なること。患者の意見は一般的に撤回可能性が担保されていること。人工呼吸器という医療の一ツールに限って、それらが否定されるのは奇妙であること。こうした点さえ押さえておけば、この問題に一筋の光が見えてくるように思います。
 人は多様で人生もいろいろ。ですから、多種多様な終末期の迎え方があってよい、そう私は思います。リビング・ウィルはそれを維持するための概念です。

 終末期医療のツールを巡る誤解

 胃撰とは、簡単に喬うと、お腹に穴を開けて、そこにチューブを通して、そのチューブが直接冑につながっているという状態です。これは、口からものを食べられない人が、お腹から直接栄養を摂取できるように行われます。
 この胃痩の是非も、とくに延命治療と絡めて長く議論されています(*65)。でも、人工呼吸器と同様に、胃痩も医療の一ツールにすぎません。ですから、私は「胃痩の是非」という命題ではなく、別の問いの立て方をすべきだと思います。
 それは、「誰に」「何のために」胃痩を使うか、です。
 かつて、慢性のカビの感染症に苦しんでいる患者さんがいました。ありとあらゆるカビを殺す薬を使っても、どうしてもよくなりません。さらに、喉の病気があったために、ものを飲み込むのがとても苦手で、食べ物が誤って肺に入ってしまい(誤嚥と言います)、頻繁に肺炎を起こしていました。また、ご飯が食べづらいので、ひどくやせ蓑え、栄養不足の状態でした。
 あるとき、この患者さんに胃痩をつけてはどうかという案が出ました。私自身、「胃痩は終末期医療のツール」という思い込みがあり、正直、そんな発想がまったく浮かびませんでした。
 その後、この患者さんに胃痩をつけたところ、みるみるうちに元気になり、肺炎も起こさなくなりました(胃痩で肺炎を起こさなくなる保証はありませんが、少なくともこの患者さんに限定すると起こさなくなりました)。
 そして驚いたことに、いくら薬を使っても治らなかったカビの感染症も、薬を使わずして劇的によくなったのです。栄養状態は人間の免疫能力とシンクロします。ですから、栄養状態がよくなり、免疫能力さえ十分に回復すれば、たとえ抗生物質がなくても治ることはある、というわけです。
 こういう患者さんにとって、胃痩は延命行為でも何でもなく、単なる医療行為にすぎません。というわけで、胃痩の議論は「誰に」「何のために」が大事なのです。そして、胃痩が延命目的になったとき、初めて、その延命の是非が議論されるべきなのです。「胃痩の是非」ではなく、というのがポイントです。
 ところで、私も不勉強だったのですが、ALS患者にも早期に胃痩を行うと、呼吸
状態がよくなり、病気の進行が遅くなるのだと、東京都立神経病院の清水俊夫先生に教えていただきました。ちなみに、ALS患者の栄養管理はとても難しく、普通の人よりたくさんカロリーが必要な時期とそうでない時期があるのだそうです。
 とにかく、ALS愚者にとっても胃痩は治療の一ツールで、いわゆる延命のツールとは呼べません。ですから、そういう文脈で、胃痩の妥当性、是非が議論できるのです。
 とはいえ、胃痩のついた患者さんを見て「エイリアンみたい」と言い放った政治家がいるそうです。これは単なる本人の主観、好悪で、胃痩の是非ではありません。
 一方、患者にとって好悪の問題は重要です。たとえば、がんの化学療法で頭髪が抜けるのを嫌がる患者さん。これは患者と医者にとって重要な論点で、ないがしろにはできません。同様に、胃痩を感情的に嫌がる患者さんがいても、それは大事な主観であり、医者もその感情を無視するべきではありません。
 このように、好悪の感情は個々のケースでは重要ですが、公共の議論では不適切です。好悪と是非を、私たちはしばしばゴチャゴチャのまま話します。好悪が論点なのか、好悪を論点とするのは不適切なのか、も多くの場合、グチャグチャです。議論は各論的に、あれとこれとを区別して、クールにリアルに行わなければいけません。

 医療「礼賛」も「否定」も同じ穴のムジナ

 本書は、幅極論」を風刺的に捉えた「パロディ」です。その対象は、近藤誠氏の『医者に殺されない47の心得』と、内海聡氏の『医学不要論』です。
 両者の特徴の、「極論」はウケます。とにかく人気がある。医療の世界に限らず、「結局あいつが悪いんだ」みたいなもの書いは、スカッとして気持ちがいいですから。
関西の某市長さんみたいに。
 近藤氏も内海氏も、医療界(内海氏の言う「イガクムラ」)を悪の巣窟とし、自らを、その巨大な敵と戦う孤高の戦士として設定しています。そのヒロイズムに市民は感動するのです。
 本屋さんに行くと、医療・医学・健康本は「極論」に満ちています。これで健康になれる、こうすればがんにならない、こうやったら老化は防げる  そんなタイトルばかり並んでいます。こういう断言ロ調の医療・医学・健康本はすべてインチキです。断言しておきます。
 本書を通して述べてきたとおり、医療や医学は、極論や断言が通じる世界ではありません。むしろ、医療や医学は、より微妙で繊細で、わかりにくいものです。
 高血圧の治療薬も、吉と出る場合も凶と出る場合もあります。いや、ほとんどの医療が、吉と出る場合も凶と出る場合もあるのです。Aという主張が出ても、「とはいえ1」と必ず反論が返ってくる。これが医療・医学の本質と言えましょう。
 そもそも、近藤氏も内海氏も、「既存の医学上のデータ解釈は意外と間違っていますよ」という着眼点から既存の医療にケンカを売っているのです。話はそう簡単ではないことは、両氏が一番ご存じだと私は想像しています。
 そういうわけで、本書で、私はこのような医療や医学の「微妙な世界」をできるだけわかりやすくお伝えしようと思いました。しかし、口ごもるような口調では伝わりにくい。わかりにくい。読みにくい。納得しにくい。説得力がない。人気が出ない。
 ですから、わざと「極論し口調で議論を展開させました。そして、囲とはいえ」と話をひっくり返し、「ことはそう単純ではないんですよ」とカウンターをかましました。これを繰り返すことで、白黒はっきりしにくい医療・医学の世界観を、身体的に体感できるといいな、と思ったからです。
 とはいえ、近藤氏や内海氏のような極論に対して、多くの医者は「トンデモ」のレッテルを貼り、全人格を否定し、議論の余地なし、と黙殺しました。それも一種の極論です。既存の医療団体、近藤氏、内海氏……それらの主張は真逆でも、発想はある意味そっくりです。
 近藤氏、内海氏はよいことも醤っています。少なくとも高血圧やコレステロールや尿酸の治療中の人のうち、薬が不要な場合もたくさんあるのは事実です。
 がん検診には役に立たなそうな検診があるのに、無批判で行われています。
 薬の選択は製薬メーカーに踊らされ、無批判に「新しい薬」が優先されています。
そのような環境が、「ディオバン事件」のような捏造事件の温床になりました。
 一〇〇パーセント正しい人問も一〇〇パーセント間違っている人間も存在しません。どういう意見の相手でも、各論的に対話し、間違っていると思える「論旨」や「データ」に反論することは大事です。でも、「人間そのもの」を全否定し、コミュニケーション拒否、ではダメなのです。
 というわけで、トンデモ、デマと呼ばれているものに対峙するには、丁寧に、各論的に反論するのがベストです。もちろん、黙殺もいけません。

 藷良な医者こそ患者の話を聞かない

 概して、医者はまじめです。しかし、「患者によかれ」という思いが強いほど、患者と噛み合わなくなることが往々にして起こります。なぜなら、患者の言葉に耳を傾けず、ひたすら自らの正義を強要しようとしてしまうからです。
 しかしながら、患者の多様な価値観を聞き取り、その価値観に一番近いテイラーメイドの医療を提供することこそ、本来の医者の仕事です。
 医者と患者の対話が欠けた現場では、画一的な医療しか提供できません。そこでは、検査の異常値にはすべて薬が出されます。高血圧にはARB、糖尿病にはDPP-4阻害薬、尿酸値にはアロプリノールが出されるのです。「なぜ、薬を出すのか」
などと医者は自分に問いません。患者も医者に質問をしません。
 こうした多様性を欠いた医療は、貧弱な医療です。あえて乱暴に言えば、「途上国的な医療」です。集団予防接種、集団に寄生虫の駆虫薬、集団にビタミン剤、集団に肝油  戦後の日本のように、国民が明らかに健康を損ねていた時代であれば、医療は画一的、集団的でもよかったのです。
 しかし、平均寿命が延びて、ケガや感染症の「明らかな医療問題」が払拭されはじめた現在、医療に残されているのは「微妙な問題」がほとんどです。
 がんには抗がん剤が効きますが、百発百中ではなく「微妙」に効きます(やらないより、やったほうが「まし」という程度です)。心臓病の治療、多くの予防接種、糖尿病の薬  これらも、たとえ効くとしても判断しづらい程度。スカイダイビングのパラシュートのように、ガッチリと人命を守ってくれる命綱ではありません。
 こうした微妙な治療の選択の場合、メリットとデメリットの差もわずかです。空から飛び降りるときにパラシュートを着けるか着けないかといった絶対的な差は皆無です。たとえば、高血圧、糖尿病、コレステロール、尿酸などの数値を下げる薬を飲まなくても、すぐに死ぬわけではありません。副作用のリスクを考えると、「絶対に飲め」と強要するほどのインパクトはないのです。患者に経済的な負担もかかります。
 だからこそ、医療には「対話」が必要なのです。微妙な問題には「あえて治療しない」という選択肢だってあり得るのです。それは「医療の敗北」ではありません。豊かな医療の選択肢として、真正面から向き合う覚悟が医者には必要です。健康は大嘱
な価値の一つですが、絶対的な価値ではありません。
 たとえば、八○歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎氏は人生を冒険に賭けてきました。登山は明らかな健康リスクで、多くの人が山で命を落としています。仮に、健康が価値のすべてだと需うのなら、「山にはもう登るな」という答えしか出てきません。でも、置浦氏から冒険を奪い取ったら、それこそ、三浦氏の人生は大きく損なわれてしまうでしょう。
 研修医のときに「医者はジャッジメンタルになってはいけない」と教わりました。
ジャッジメンタルとは、患者は喘こういう人だ」と決めつけてかかる態度です。「あの人は薬を飲まない人だから」酬タバコを止めない人だから」と断罪して、こっそりさげすむような態度です。
 ジャッジメンタルという需葉はジヤッジとメンタルに分解できます。いわば裁判官、司法のメンタリティーです。医者は人を裁く立場にはありません。医者は相手がどういう患者であれ、同じような態度と心で接して多様な判断をします。もちろん、感情的に納得できないこともあるでしょう。しかし、医者はつねに、それを赦すところからスタートするべきなのです。

 「中心のない」対話の医療のすすめ

 医者に必要なのは赦しです。健康に生きない、という選択肢も選択肢の一つとして認める勇気と寛容が必要です。正義をゴリ押ししない、他者の言葉に耳を傾け、相手を全否定しない、極論に圃執しない  そんな寛容です。
 医者にできることは、ただ病気を見つけ、治療するだけ(できたとしたら)。全人的医療、病気を見ずに人を見る、なんて軽々しく口にすべきではありません。『医学不要論』は極論です。もちろん、医学は必要です。でも、「医学は、わりと不要論」
だったらありだと思います。
 一方、必要もないのに「念のため」受診し、検査を要求し、薬を要求する。翌日には「念のため」別の病院を受診する。ちょっと気に入らないことがあるとすぐにクレームをつける。医療ミスがあったんじゃないかと勘ぐる。唯箱の隅をつつく。陰謀論に走る  こんな患者の医療の乱用が、医者から時間と余裕を奪い、そしてあなたの話に耳をふさがせてしまうのです。
 医者が話を聞いてくれないから、信用できなくなる。そして、信用できないから、『医学不要論』のような極論が蔓延するのです。
 ですから、患者「中心」の医療ではダメなのです。アメリカでは(「患者中心の医療」のスローガンが行き過ぎて、患者鴨医療者の図式ができ、主導権争いが起き、そして権利を行使するための訴訟が増えました。
「中心」という言葉は、誰かの誰かに対する優位を想起させます。それが明文化されていなくても、「じつは〈患者中心の医療〉はそういう意味じゃなくて……」と説明してもダメです。ほのめかしがなされていることそのものが問題なのです。
 患者は医療の世界の一参加者です。=参加者にすぎない」と規定すればラクになります。自己決定のプレッシャーに苦しむ必要も、自分の権利が十全に行使されているか、神経質にチェックする必要もなくなります。
 中心にどつかと座るのではなく、ほかの人たちと同じ高さにいて、全体に眼差しを向けるのです。後ろにも目を向けなければいけません。あなたがペラペラしゃべっている後ろに、イライラして待っている患者はいないでしょうか。
 誰が中心でもない、みんなが少しずつ全体のことを考える。そんなとき、患階にと
って最良の医療を受けられるチャンスが初めて到来します。「あなただけのための』豊かな医療を享受できます。自分のことばかり考えていると、自分にとってベストな医療は手に入りません。
 日本の医療は現在も発展途上にあります。しかし、昭和四〇年代よりも五〇年代、五〇年代よりも六〇年代、六〇年代よりも平成のほうが、日本の医療はベターです。
技術的、態度的、真心的にも。日本の医療は「今」がベストなのです。
 そして、日本の医者も、史上最高の医者たちです。歴史上、日本の医者がこれほど優秀だったことはかつてありません。一〇年前、二〇年前の医者よりも、今の医者のほうが格段に優秀です。技術的、態度的、真心的にも。
 とはいえ、改善の余地はまだまだ残されています。もつと日本の医療はよくなるべきです。そのために、医者がやるべきこと(まずは、肩の力を抜きましょう)も、患者にできること(まずは、「眉間にシワ」はやめましょう)も、たくさんあります。
 そして、日本の医療がもっともっとよくなったとき、私たちは本当の意味を込めて言うのです。「医学不要論? そういえば、そういうのもあったよね。ま、あの頃はみんな、余裕なかったしね。内海先生も最近はだいぶ丸くなったみたいよ」


絶対に、医者に殺されない47の心得

著者/訳者

岩田健太郎/著

出版社名

講談社

発行年月

2013年12月

サイズ

221P 18cm

販売価格

1,100円 (税込1,188円)

本の内容

病院を50%だけ信じて医者と薬を100%使いこなす方法!!処方の多い薬・成分77を徹底解説。世界的に突出してオカシイ医者と患者の関係を改善!

目次

第1章 病院・薬と上手につきあう基本(「二日経ったら別の医者」はダメ
一発で、よい医者を見分ける方法 ほか)
第2章 こんな薬を出す医者に気をつけろ(抗生物質ばかり出す医者にご用心
「日本でだけ」使われている薬を知る ほか)
第3章 こんなタイプの医者に気をつけろ(尿酸値「だけ」治療する医者
患者ではなく「検査値」を治療する医者 ほか)
第4章 医療情報のウソ・ホント(治療の正解は十人十色
乳がん検診の効果は「グレー」である ほか)
第5章 医者と患者の「おいしい」関係(ホントは怖い「患者中心の医療」
インフォームド・コンセントの弊害を知る ほか)

ISBN

978-4-06-218748-0

著者情報

岩田 健太郎
1971年、島根県に生まれる。神戸大学大学院医学研究科・微生物感染症学講座感染治療学分野教 授。神戸大学都市安全研究センター教授。1997年、島根医科大学(現・島根大学)卒業。沖縄県立中部病院、コロンビア大学セントルークス・ルーズベルト 病院内科などで研修したあと、中国で医師として勤務。2004年に帰国し、亀田総合病院(千葉県)で感染症内科部長や総合診療・感染症科部長を歴任





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