きょうこの頃



2014年4月13日(日)

 司馬遼太郎『街道をゆく@ 甲州街道 長洲路ほか』読了。



「布留」
 というのが、このあたりの古い地名である。古代人にとって神霊の宿るかのような景色だったのであろう。神にかかる枕ことばである「ちはやふる」のふるがそうであり、神霊が山谷にいぎいきと息づいておそろしくもあるという感じが振るという言葉にあるようにおもわれる。
 この森の杉は、
「布留の神杉」
 とよばれていたらしい。柿木人麻呂の「石上布留の神杉神びにし吾やさらさら恋に遭ひにける」という歌が、この森の気分をよくあらわしている。
『新撰姓氏録』の地名のあらわしかたによると、
「石上 御布瑠村 高庭之地」
 という。森へ入ってゆく道がわずかにのぼりになっている気味があり、なるほど森は高庭というようにやや高台になっているらしいが、さらに厳密にいえば、「高庭」は森のもっとも奥にある特定の一角をさす。その場所についてはあとで述ぺる。.
 森に入ると、
「なるほど、ここは大和ですね」
 と、ロジャ・メイチン君は、元来感動をあけっぴろげにしたがらない、というよりそれを卑しむ癖のある青年だが、この場合だけはその慎みをわすれたようであった。大和はすでにいまの奈良県にないか、もしくは残りすくなくなっているものの、この布留の石上の森には測りしれぬ古代からつづいている大和の患吹がなお息づいているといった感じなのである。つまり大和の土霊の鎮魂の「振る」なる作川がなおもこの石上の森には生きつづけてるように思える。
「やはり、これは布留の塁ですね」
 と、メイテン君も、私がこの森に感じている振るのことばのひびきを、おなじ気持で感じてくれたようであった。
 ところで、この森は、崇神王朝という大和勢力の隆盛期に、王家が直接にまつる社にされたというが、むろんそれ以前の、はるかな昔から神霊のふる森として畏れられていたのであろう。
 そのころには、沖縄の古信仰がそうであるように社殿も拝殿もなく、森そのものが神の庭であった.いまこの石上神宮には国宝の拝殿や重要文化財の楼門などがそなわっていて、どの建物もそれぞれ優麗であるにせよ、しかしこの神さびた森にはそれさえ唐めいていてさわがしいような思いがする。
(56-57p)

 「崇神王朝は、征服王朝である」
 という戦後の諸説は、きわめて考え方として自然である。われわれは戦前、その崇神帝で代表される日本古代国家の朝鮮における植民地が「任那」であったというぐあいに教えられたが、そうであるにしてもモトは逆であろう。崇神帝で象徴される勢力が「任那」からやってきたと考えるほうが、自然であるかもしれない。が、その議論については武蔵のこの項とはさしあたって関係がない。
 ともあれ、その任那が六世紀のはじめに衰弱し、ついにB本の大和王朝と同盟関係にあった百済に一部を割譲し、さらに新羅に他のすべてをとられてしまったことだけはたしかである。くだって七世紀の後半、朝鮮半島の情勢変化とともに百済の国運があぶなくなった。この、
「朝鮮半島の情勢変化」
 というのが、武蔵の国にひびくのである。
 それより前、北朝鮮に高句麗という強大な勢力が興って、その兵は完全な騎馬民族国家であった。その版図は満州の]部をもふくめていたから、もともと満州で遊牧していた連中が南下した勢力であり、人種は固有満州人であったであろう。高句麗は南下して百済を圧倒した。百済は倭をたのんでこれと軍事同盟を結ばざるをえない。
 さらに百済は東隣の新羅とはげしく抗争しつづけ、ついに倭の大和政権からの援軍を乞うにいたった。

(105p)

 亡くなられた子母沢寛氏は、祖父が彰義隊士として上野の山にこもり、敗れて北海道へわたり、子母沢氏を膝の上でそだてられ、旧幕のおもいでを子守歌のようにして氏に語られたそうだが、そのせいか、子母沢氏にとっても長州はあくまでも敵という印象であった。
「あれ(長州人)はなんでしょうね、武土というよりどうも商人のような感じがしますが」
 と、憎しみをこめて私にいわれたことがある。私はかろうじて、
「そりゃ、徳川武士は百姓ですもの」
 と、小さな声で返答したが、徳川氏ー三河武士集団ーのよさも悪さも、百姓の原理の上に立っていたことである。話が枝道に入るが、尾張という流通のさかんな土地で成長した信長や秀吉は商人の原理と機略をもっていたが、家康はそういうところがすこしもなく、あくまでも山村の庄屋さんの原理でその生涯を終始した。信長・秀吉という商人が倒産したあと、庄屋さんが出てきて自分のものにし、徳川帝国というものを庄屋の原理でつくりあげた。鎖国も庄屋の原理であり、四民の階級を法制化したのも農民の感覚であり、家康はそれらを意識的に平定の原理であるとし、死ぬ前に、
 ー三河のころの制度を変えるな。
 と遺言し、それを天下統治の法制的原理として据えこんだのである。その点、変ったおっさんであった。世界史的にいえば航海商業時代が第二期の隆盛期に入っ.ていたのに、徳川家一軒をまもるためには、世界史の潮流から日本を孤立せしめ、ことさらに農民の原理でしばりあげた。農民の嫉妬心を利用し、相互監視の制度をつくり、密告を奨励し、間諜網を張ったという点で、日本人の性格をそれ以前にくらべてずいぶん矯小化した、
 海にもビらねばならない。しかしその前に家康はーいよいよ枝道に入るが.ー世界史的な動向どして航海商業時代がきているということは十分知っていた。かれは堺商人との接触を濃厚にもっていたし、漂流してきた英国人の船長ウィリアム・アダムス(三浦按針)を召しかかえることによって瀧外情勢を理解する基礎を得ようとした。十分知っていてなおそのことから目をつぶり、日本を鎌倉期の農業国家にもどしたのである。家康の武将としての理想像は武田信玄であり、政治家としての理想は源頼朝であった。
 家康らの前時代である室町期は、いわば貿易時代であった。室町将軍みずからが商人のようになって対明貿易に熱中し、その側近衆のなかには京の大商人を置いていたし、また私貿易では九州の武装貿易者(倭寇)がはびこり、遠く東南アジアにまで日本人町ができるほどであった。このまま日本が世界史の潮流のなかに参加していれば、江戸期の四畳半文化も成立しなかったかわり日本人の四畳半精神も成立せずにすんだにちがいない。
 秀吉は商人の親方であった面がつよい。かれはその政権の財政的基盤の大きな部分を、堺と博多といったような貿易収入源に置いた。.
 その所領を比較してもわかる。徳川政権の直轄領は六百万石と言い、.八百万石ともいわれているが、あれほど豊かであった豊臣政権の直轄領はわずか二百数十万石にすぎなかったことでもわかる。秀吉は農村を収奪して米穀をもって財政の基盤にするよりも、海外貿易による儲けの方により魅力を感ずる政治家であったことがわかるし、同時にかれが世界史的潮流のなかでの時.代の子であったことがわかる。
「武士は商人のまねをするな。むしろ百姓のまねをせよ」
 ということが、徳川家の譜代大名のいくつかの家の家訓にあり、たとえそういう家訓のない家、でも、倫理としてそれが厳然として存在していた。下層武士は江戸初期からすでに内職をしなければ食えない状態になるが、食えなければ百姓をせよ、とすすめたのである。百姓さえすれば肉体をつかって筋肉をなまらせることもないし、忍耐心も出来、自然が忍従心をやしなってくれる。
商人はそうはいかない。そのため商人のまねは武士はいっさい禁じられていた。やむをえざる場合は、職人としての内職は黙認された。傘張り、楊子削り、.扇子の骨づくり、といった下職としての内職は、.江戸でも御家人階級の一般的なものであり、それらの製品を日本橋あたりの商家の(203-205p)

「外様藩の大名は、徳川将軍に対し君臣関係があるのか」
 という法理的な議論は、幕末ではひそかながらさかんに論じられた。外様藩のひとつである土佐藩でも、藩主山内容堂と参政吉田東洋のあいだにこの議論があり、東洋が勝った。東洋は親幕家で、「臣関係である」という意見であった。長州藩でも山県太華という学者は「君臣関係」
という学説であり、ぞうではないという吉田松陰とのあいだに論争があった。
 薩摩藩のばあいはそういう議論は一度もおこなわれなかったようである。なぜならば薩摩隼人たちは徳川家と君臣関係などあってたまるかと頭からそうおもっていたようであり、つまりは薩摩藩は潜在的には独立図であり、徳川家とのあいだは一種の外交関係であるにすぎないとおもっていたらしい。論議がおこる余地もなかった。
法理的には、薩摩藩の解釈が平明で、正しいといわざるをえない。.
 たとえば幕府の警察権というのは、諸藩にじかにはいることが出来ない。諸藩の江戸藩邸も治外法権で、そこにたとえコソ泥が逃げこんだとしても幕府機関はその引渡しを要求することが出来ても、じかに踏みこむことができないのである。また藩の藩境には、公式の幕府の.使者以外は「幕府役人は原則としてはいることができず、薩摩藩などは幕威さかんなころでも容赦なく幕府の間諜を密殺した。幕府としてはそれに対してどういう抗議もできなかった。薩長いずれにしても、徳川体制内における武力を持った野党もしくはそれ以上の存在であったどいうだけだし、であればこそ日本的原理に適っていたとみるべきである。
 どうも、長州路ということになると、話が結局はこういう具合のえんぜつになってしまう。初夏の長州路の花鳥風月をたたえる旅にしたいのだが、なんともそのようにはなりにくい。 次章は、多少その方を心がけねばならない。

 ところで、明治の東京大学の外国人教師で、日本の歴史学にはじめて西欧の実証的研究方法を伝えたルートヴィヒ・リース(一八六一ー一九二八)は、帰国してから日本に残した愛嬢、十七歳の政子さんに手紙を書いている。「(歴史雷を)読むときには地図を見ることを忘れないでください。
歴史上の話は事件が起った場所を知るなら、もっともっと面白くなります」(加藤政子談話筆記『わが父はお雇い外国人』)。
 およそ歴史研究に地図や地誌が必要なこと.は、ランケの弟子であったこのドイツ人教授の庭訓を待つまでもないであろう。『日本外史』の著者、頼山陽は座敷いっぱいになるほどの地図を造ったと伝えられている。またひとえに史伝に志向をかたむ"る晩年の森鴎外が、今は稀覯刊行物として珍重曹、れる「東京方眼図」の作成者であることも想いだざれよう。司馬氏も、じぶんは地図を見るのが好きだ、といつか書いていたが、この好みがその創作にどのよう揺用されているかは、乃木大将の旅順包囲戦を書くとき、『日露戦史』の付録地図を数十枚も、戦闘経過の調査のためかきつぶした(.池島信平対談輩と語ぞいることでまきらかであろう。このシリーズにもまことにゆきとどいた地図がつけられているが、私は熱心な読者たちに、ひとまわり大きな全鉢をしめす国土地理院の地図か、分県地図のごときものを参照しながら、この本を読むことをお勧めしたい。それによりリース教授のいうようにこの読み物は「もっともっと面白く」なるはずである。
このように司馬氏にあっては、歴史上の事件や人物がつねにその地理的状況とむすびつくので、「風土」ということばの意味が特別な重要さをこの著書でも持ってくる。司馬氏のかんがえている「風土」については、このシリーズの予告篇でもある小篇『歴史を紀行する』の「あとがき」で、じぶんで説明している。それによると、歴史関係によりある土地の多くの人びとが結ばれると、あきらかに他とちがるにおいが生まれる。すなわち風土的な相似的気質、相似的思考があらわれてくる。「風土を考えることなしに歴史も現在も理解しがたいばあいがしばしばある」と言いきるまでにこの著者においで基本的な概念であることがわかる。
 この風土の捉えかたは、和辻哲郎博士がその劃期的な著書『風土』、.において、この主題を定義.しているのとほぼおなじと言ってよいであろう。和辻氏はそこで、風土は人間の存在しない自然ではなく、主体的人間が働く土地であり.「空間性に即せざる時間性はいまだに真に時間性・では.ない」と述べでいる。.これを司馬文学的なことばで翻訳すれば、風土はつねに主体的人間、つまり歴史的人物が働くところであり、「風土とむすびつかない歴史は、まだほんとうの歴史ではな.い」というこどになろう。私たちにとっても、歴史と地理的状況とが、.タテとヨコの線で十字にきりむすぶところに、立体的で具体的な歴史像があらわれて来ることはたしかだ、といえる。
 しかし、この書の特色は、飛息の山辺をゆき、八王子の峠路をたどり、あるいは山口に大内氏の跡を見る遍歴が、いわゆる廃塘感傷感や史蹟懐古の平凡な情感にながされないで、つねに新鮮で生動的な紀行文学となっているところにある。
 これはこの著者の英彩ある文体にもよるが.それ以上に、原日本人のすがたを求め.る姿勢をつねにささえている動ぐ鮮明な歴史精神が存するからであろう。
 著者はじぶんの歴史の見かたについて、すこし誇張したことばで、「ふるくさい左翼理論に.は..うんざりしている」と語るように、その単純な一元的史観を拒けはするが、.長州藩の旺盛な政治活動の基礎となる藩の豊富な財源の説明については、充分に唯物史観の成果を援用する弾ヵ的理解を有しているβそして全般的なこの著者の立場は、.、ラ.イシ・ヤ「ワー博士やすぐれた日本史の著者である丁・ホール教授などを中心にした、.アメ.ゲ方入艮本研究者の近代化史学に近い込のといえ(261-263p)


街道をゆく 1

長州路ほか 朝日文芸文庫

著者/訳者

司馬遼太郎/著

出版社名

朝日新聞出版

発行年月

1995年00月

サイズ

268P 15cm

販売価格

500円 (税込540円)

第一章 湖西のみち

第二章 竹内街道

第三章 甲州街道

第四章 葛城みち

第五章 長州路





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