きょうこの頃



2013年9月25日(水)

 清水將大『白州二郎名言集』読了。

 サンフランシスコ講和(英語ではpeace treatyというらしい)締結が1951年だから、あしかけ6年占領されていたわけである。
 吉田茂と白州二郎の獅子奮迅の働きがあったからこそ早まったと言うことならば、十年以上占領国の身分に甘んじていたかもしれないのだ。

 「曲学阿世の徒」っていう言い方がいい。


民政局長ホイットニーとの応酬

 次郎の最大の交渉相手はGHQ民政局(GS/Government Section)だった。これは次郎が指摘していることだが、"民政局"という日本語訳は"占領軍"を"進駐軍"と呼んで国民のショックをやわらげたのと同じであり、本来は読んで字のごとく、"統治する(Govern)"ことを目的とした部局であった。
 その"統治"の主眼は、日本を民主的な国家に変貌させることで、民主化といえば聞こえはいいが、二度と戦争を起こせないよう骨抜きにすることに尽きた。この民政周を率いていたのが局長のコートニー・ホイットニー准将だった。
 このGHQの民政局長のホイットニーと初めて対面した折にも、いかにも次郎らしい挿話がある。
「白洲さん、あなたは、なかなか英語がお上手ですな」
 そういって次郎の英語を誉めるホイットニーの口調の裏には、あきらかに勝者の驕りが感じられた。そのとき、次郎はいつもの彼らしいシニカルなユーモアぶりを発揮し、すかさず、こう切り返した。
「いえ、閣下。あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」
 先のマッカーサーへ切り返した天皇の贈り物にまつわる挿話は、次郎が天皇を擁護するというより、「相手が誰であれ、理不尽な振る舞いは許さずに、これを正す」という、次郎のプリンシプルな精神に発したものと見たほうが正しいようだが、さらにいえば、次郎は入と付き合うとき、"いきなり噛みついて、相手を試す"そんな癖もあったのである。マッカーサーに噛みついてみせたのも、あるいは次郎流の人身掌握の術
(58-59頁)

「何でそんなに宮澤さんがいいの」
 と、きくと
「一生に一度でいいから一国の総理大臣に向かって、おい、お前! って言ってみたいんだよ」
 と、カントリー・ジェントルマンらしく答えたという。
すると、宮澤喜一も心得たもので、
「ありがたいが、白洲さんが後援者じゃ、お金くれないからダメだ」
と応酬したという記録が残っている。


米基地なし、沖縄返還も含む独立を考えていた次郎

 池田、次郎の渡米はアメリカの情勢、本音を打診するのが目的だったのだが、出発前までの国内は「単独講和」(西側諸国だけとの講和)か「全面講和」(社会主義も含めた講和)かで議論が沸騰していた。早期単独講和を推し進めようとする吉田茂は、全面講和を主張する南原繁東大総長を「曲学阿世の徒」と罵倒し物議を醸したこともあった。
 ワシントンに着くと、池田は陸軍省顧問だったジョセブ・ドッジと会談し、
「日本は早期講和を望んでいる。それには国家の安全を保障するため、講和後もアメリカ軍を日本に駐留させる必要がある」
 と吉田茂の考えを伝えた。次郎は、池田とは別行動でバターワース国務次官補と会ったが、吉田の考えとは全く異なる重要な意見を交換していた。
「日本はソ連に近いし、中立国になれば、すぐに共産国家になってしまう。といって、再軍備も戦争放棄を定めた新憲法に抵触するからできない。日米協定で米軍基地を日本に置いて戦争に備えることも、憲法上難しい。この袋小路を突破する最良の労法は、アメリカが日本の占領を終了すると宣言して、国家主権を日本に返還することだ」
 簡単にいえば、吉田が基地を残しても独立を早めたいと考えたのに対し、次郎は基地をなくし、沖縄も返還させて、日本を独立させようと考えていたのだ。
 アメリカ政府が懸念していたのは日本の軍備の問題だった。戦争放棄の憲法をもたらした国として矛盾しているのだが、日本を丸腰のまま独立させるのはあまりに危険 

(80-81頁)

 一九五一(昭和二六)年九月、アメリカ・サンフランシスコで世界五二カ国が参加しての講和会議が開かれることになった。日本の首席全権は吉田茂。次郎も同行した。
九月四日から七日までの各国が演説を行い、八日が条約の調印式であった。
 吉田は、この記念すべき調印の署名に備え付けのペンを使わず、わざわざポケットから自分のペンをおもむろに取り出してサインした。
 吉田らしい思いが込められていると次郎は胸を熱くしたという。こうして、一九五一(昭和二六)年九月八日、日の丸は再び揚がった。
(85頁)

「調印の時も演説の時も、総理の態度は本当に立派だった。その姿を見ながら、総理はやっぱり昔の人だなという感じが強かった。昔の入はわれわれと違って、出るべきところに出ると、堂々とした風格を出したものだ」
 帰国後の次郎はこう語った。
(88頁)

 白洲次郎は、身近にいたロビンたちをお手本にしたのだろうが、身につけるものも若い頃から完壁なブリティッシュ・スタイルで決めていた。
 英国製のスーツ、ライターはダンヒル、そしてベンソンの懐中時計に英国製のオーデコロン。
 次郎の場合は、ブランド品を身につけてひけらかすようなレベルはとうに超越しており、ごく自然に名品を選んでいたといえよう。
 背広はすべてロンドンの老舗「ヘンリー・プール」で仕立てたもの。
 ブレザーは、「タンブル&アッサー」に行って買うそうだが、本場仕込みのブレザーの着こなしは、とても普通の日本人には真似できなかったほどであった。
 そして、「『T.P.0,S」(Time,Place,Occasion,Style')が、とてもしっかりしていたという。
 日本人が勘違いしているのは、カジュアルというと若い、安い、だらしがなくていいという風なところであるが、そんなことは決してなく、カジュアルのドレスアップもあるわけで、そういうお酒落も次郎はキチッと決めていた。
 靴もロンドンでのオーダーメイド。床屋は「米倉」ホテル・オークラ店、靴磨きは帝国ホテルと決まっていた。
 旅行かばんは「ルイ・ヴィトン」を愛用していた。いいものを使えば、ホテルでの扱いも違うからである。
 ルイ・ヴィトンは、娘の桂子さんがパリに留学する折にも持たせている。
 次郎の口癖は、「女に男のものがわかるわけがない」で、妻の正子さんにはネクタイ一本任せなかったという。
(162-163頁)

 次郎が愛読した本は「アウトスポークエン・エッセイズ」(out-s@oken Essaysー直言集)という本で、ロンドンのセント・ポール寺院の僧侶だったイング(Inge)が書いた本だとのこと。
 好きな日本の作家は、江戸下谷生まれで『五重塔』で知られる幸田露伴。外国の作家では、若い頃の社会風刺的作品「恋愛体位法」で有名なハックスレーだそうだ。
 また、英国の詩も趣味だそうで、イギリス・ロマン派の詩人で、ローマで天折したキーツが好きだとのこと。
 そして、若い人にすすめたい本は? との質問に次郎はこう答えている。
 白洲  「ピーター・パン」を書いたJ・M・バリの「勇気」というパンフレット。
    日本の若い人に一番足らんのは勇気だ。
(165-166頁)

 扇谷  教養を積んで……。火野葦平さんの『花と竜』……。あれは小説の浪花節    ですよ。
     それを愉しく読んだという。
 白洲  人情の機微を衝いているからね。よく、浪花節ナンてつまらない、親子生    き別れナンておセンチだなというけれども、負け惜しみをいう必要はないと    思うんだ。
     また、浪花節をけなさないと、文化人じゃないようにいうけれども、そん    なことはウソだと思うんだ。
 扇谷  それをいって貰いたかったんだ。
     浪花節、ぼくは大好きだ。浪花節に、イギリス育ちの人が、どういう反応    を示すかと思ってね。
 そして次郎は、浪花節ほど動物的にまた単純に、人間の感情を出しているものはない。そのため大衆がついていくので、それを、オレは大衆より偉いからといって、蜜せ我慢することはないのだと語ったのである。
(168頁)

 戦後、銀座の人気を二分したクラブがある。銀座生え抜きの「エスポワール」と京都から乗り込んできた「おそめ」がそれであった。次郎はどちらにもよく顔を出したが、次郎と親しかった川口松太郎はこの二軒のクラブを題材に『夜の蝶』(昭和三二年)という小説を書き、京マチ子と山本富士子主演、吉村公三郎監督で、大映映画にもなった。
 その中でふたりのママから思いを寄せられる"白沢一郎"というコロンビア大卒の前国務大臣で、イラン石油輸入権で荒稼ぎしている政界の黒幕のモデルこそ、白洲次郎その人なのである。
 また、こんな次郎のエピソードもある。
 あるとき三宅一生氏が、先日行ったイタリア・レストランで食前酒にビールを飲みたいとオーダーしたら、「うちはイタリアンだからビールは出さないと言われました」
というのを聞くや否や、白洲次郎は立ち上がって出かけていったという。
 もちろんそのレストランで「ビール!」と注文するためにである。
 次郎はおいしいものにも目がなく、通うところはすべて知る人ぞ知るという名店だったが、各店の主人たちは一様に、
「白洲さんに料理を出すときはこちらの腕を試されているようで緊張しました」
 と語っている。中でも次郎がひいきにしていた寿司屋は銀座の「きよ田」だったが、主人の新津武昭は次のように語っている。
「じいさん(次郎のこと)は自分のうちの子供じゃなくても、三歳とか四歳の子供がワーワー騒いでも絶対怒りませんでした。でも、大人が酔っ払ってるとね、知らない人でも平気で後ろから襟首つかんで、『おい、出てけ』って引っ張り出すんです」

こんな白洲次郎が愛した料理店や宿には、他に次のようなものがある。
京都嵐山「吉兆」
京都左京区「平野屋」(鮎料理)
下諏訪温泉「みなとや旅館」
軽井沢「ホテル鹿島の森・メイプルラウンジ」(バー)
中軽井沢本店「かきもじや」(ソバ)、
上野「本家ぽん多」(カツレツ)
銀座「そば所 よし田」
赤坂「砂場」(ソバ)
深川「伊せ喜」(どじよう)
(172-174頁)

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C0295 ¥743E

発行◆株式会社コスミック出版
定価◆本体743円+税
清水將大(しみずまさひろ)
1943年、東京生まれ。法政大学卒業。
実父は劇団民藝の清水將夫。その後、本姓は服部となる。
編集者生活が長く、廣済堂出版部長を経て、天山出版代表就任。その後、
アートブック本の森を主催。その問に数々の.単行本ヒット作を生み出す。
また著作者名はグループ名としているが、「江戸検定手習帖 江戸のいろ
は」「風林火山の謎 山本勘助と武田信玄」「面白発掘あるある『広辞
苑』」「脳を鍛える漢字書き取りドリル」「蕎麦うどんトリビア66題」「浅
見光彦の履歴書」他を執筆。音楽関係の著作物も多い。




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