きょうこの頃



2013年6月16日(日)

 
 1000ドル札が実際にアルコとをこの小説で知った。


指の回復を待つ間、部屋の本棚に置かれた本を畳に腹這いになって読んだ。その中に大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』という小説があった。読み終えると呼吸困難になり、脳が砕けた寒天のようになった。晩飯を食うと少し元気になり、あんな凄い小説を書く人と同世代でなくてよかったと慰めることができた。しかし同時代に生きる作家であることには変わりがないと、夢にでてきて語りかける者があった。翌朝目覚めると、敷き布団が汗をたっぷりと吸い取って茹で蛸のようになっていた。
 手の痛みは薄らいだが、原稿用紙の中の男女はタクシーに乗ったままだった。私は丸三日間、獄門台にさらされた気分で脂汗を流し続け、四日目の曙どきにビールを四本呑んでようやく眠りについた。昼前に起きたときの気分は爽快で、今度こそゴルフボールをクラブの真芯でとらえてやろうと決意を新たにした。
(10-11p.)

「そうしてくれ」
 曖昧にせずにそう答えると、ミキは頷いてバッグから茶色の封筒を取り出した。明細書も入れてあるといった。封筒には封がされていなかったので、私は無造作を装って指先に触れた現金をそのまま引きだした。1000ドル札が十二枚出てきた。これで1万2000ドルだが、この時間にニューヨークにいる移民も含めた全人口の半分以上の人間は1000ドル札に触ったこともなければ見たこともないだろう。ただ、五パーセントの裕福層には見慣れた代物だ。
クレジットカードを使うより現金で買い物をすることに楽しみを見出している嫌みな連中が多いということだ。本来この町で現金が優先されるのは、アンダーグラウンドのカジノ、娼婦、それにヘロインなどのハードドラッグを買う場合のみと決まっている。1000ドル札の下に
(279p.)



猫はときどき旅に出る

著者/訳者

高橋三千綱/著

出版社名

集英社

発行年月

2013年02月

サイズ

340P 20cm

販売価格

1,785円

本の内容

退屈を嫌い、気ままな暮らしを願う30代の小説家・楠三十郎。思い出すのは旅の記憶。青春を過ごしたサンフランシスコ、憧れの南極、映画を売り込みに行ったニューヨーク……。魂の彷徨を綴った自伝的長編。

著者情報

高橋 三千綱

1948年1月5日大阪府生まれ。小説家・高野三郎の長男として生まれる。高校卒業後、サンフラ ンシスコ州立大学入学。帰国後『シスコで語ろう』を自費出版。早稲田大学へ入学するが中退し、東京スポーツ新聞社入社。1974年『退屈しのぎ』で第17 回群像新人文学賞、78年『九月の空』で第79回芥川賞受賞。83年『真夜中のボクサー』映画製作 





content2013