佐江衆一さんの『黄落』「新潮社、1995〕はそういう小説のひとつである。六十代の初老の夫婦が九十代の老父と八十代の老母を介護するこの作品
は、「老親老後(老いた親を抱えた自.分自身の老後こを描いて刊行後二十万部を突破する話題作となり、その年度の第五回ドゥマゴ文学賞を受賞した..
もちろんそれに先だって介護の現場から、さまざまな手記やルポルタージュが報告されていた。だがほとんど女性の手になる体験記のたぐいは、「わたしはこう
やって老親を看取った」というケース報翫口であった。家庭背鼠や介護の実状の違いから、多くの読者が身につまされて読んでも、「あなたの場合にはそうでも
わたしの場合には……」と 一般性を獲得することが難しい.『黄落』の新しさは、男性の視点から介護を描いたこと、そしてその体験を文学という表現に載せ
たことである。
ひるがえって考えれば、今までなぜ女性作家の介護小説がなかったのか、そして女性 の手になるノンフィクションが、『黄落』ほ
どの話題性を呼んだことがなかったのか、と問いを立ててみることもできる.。この問いに対しては、日本の女性作家は作家であることそのことですでに「非慣
習的」な生き方を選んできており、「長男の嫁」として介護体験をするような位置に自分を置かなかったという選択があるだろう。そのうえ、女性作家は「職業
婦人」の一種であり、親の介護がかかってきた場合でも、経済的に解決するゆとりと合理性を持っていたことだろう。しかもそうでもしなければ自分の職業生活
がたちゆかないのだから、二十四時間態勢の介護を引き受けることができないのは、多くの「働く女性」と事情は同じである。それだけではない。介護体験が
あったにしても、それを作品にすることにはためらいがあったかもしれない。なぜなら育児や介護は女性にとってあまりにもあたりまえの経験と考えられてお
り、それが文学の主題になるとは思われていないこと、それに表現はつねになにがしかの粉飾や自己正当化を含むものだが、書き手としてそれをしたくないとい
う禁欲もあるだろう。そういえば不思議なことに、女性作家の手になる「出産・育児小説」というものもめったに見ない。八○年代以降、実力のある若手の女性
作家がどんどん登場したが、彼女たちの多くは、結婚していないか、していても子どもを産んでいない。その彼女たちが介護の現実に直面するのはまだまだ先の
ことである。
もし自分の感情を粉飾無しに表現すれば、「死んでもらいたい」「いっそ、殺したい」といったエゴイズムの闇に向き合わざるをえず、
血縁のなかではそうした否定的な感情に対するタブーがつよく働いてきた。性という男女の争闘の場は、女性の書き手によって、文学の主題として好んでとりあ
げられてきたが、「しょせん他人」相手には許される「殺したいほどの愛憎」も、血縁のしかも弱者に対して向けられることには、抑制がかかってきたようだ。
体験がなかったわけではない。体験に対して適切な表現を与えることが許されなかったのだ。それは体験そのものが否認されることと同じだ。親に対する「殺し
たい」ほどの憎悪がようやく「市民権」を与えられたのは、AC(アダルト・チルドレン)という概念の登場以降のことである。
多くの介護体験記が
「わたしはこんなによくやった」という「癒し」の目的で書かれており、そして「癒し」は表現の重要な機能のひとつではあるのだが、問題は「癒し」の深さの
度合いだろう。読者はそれに対して「ほんとにあなたはよくやったわね」と応じるほかない事情にくらべれば、『黄落』は書き手の男としてのずるさやエゴイズ
ム、老いと死をめぐる人間の闇を抑制した筆致で描き出した点で、私小説として水準を超えた普遍性を獲得している。「介護の地獄なんてこんなもんじゃないわ
よ」という、作者よりもつとすさまじい体験をした人もいるかもしれないが、個人的な体験が読者の共感を呼ぶのは表現の力というものであろう。その点では男
の私生活における破綻を戯画的・偽悪的に描くという口本の「私小説」の伝統が、うまく生きた例かもしれない。
それとともに、もしこれが女性作家
の手によって書かれた作品だとしたら……これほどの話題性を呼んだだろうか、という問いを、わたしは抑えることができない。おそらくは多くの男性評者の関
心を惹かず、共感も呼ばなかったであろう。その背後には、女にとっては当然視される介護に、男といえども手を出さざるをえなくなった介護の現場の現実があ
る。ひとつには経済的にゆとりがあればとりえただろう人手を頼むというオプションがこの場合口にはなかったこと、もうひとつには在宅介護の現実を救うほど
には公的介護サービスがじゅうぶんでないという福祉の貧困がある。親を見捨てたくはないが、自助にも限界がある、という状況は、なまじな自助能力があるた
めにかえって「福祉の谷間」に落ちこんでいる大半の中流家庭の現実だ。『黄落』がこれほどの共感を呼んだのも、「書いても書いても中流階級」という物書き
のふところ具合を反映してもいる。もうお手伝いさんや家政婦さんをおいて懐手をしていられるような「文豪」は、どこにもいなくなつたからだ。
2 『恍惚の人qと『黄落』のあいだ
佐江衆三さんの『黄落』はすぐれた作品だが、老人介護文学の誕生というには、それに先立つ二十三年前、有吉佐和子さんの『恍惚の人』[新潮社、1972]を忘れるわけにいかない。『黄落』は二十万部、『恍惚の人』は二百万部を超えた。